2014,08/20 14:30
抜けるように青い、青い空を見上げて
ああ、青い空、白い雲。排気ガスの臭いと、吹き上げてくるビル風にコンクリートの輻射熱。夏の太陽は破けたオゾン層を突き抜けて紫外線の槍を放り投げてくる。
此処は東京都内、渋谷区のまん中あたり。高度は大体三百三十三メートル。
去年完成した今現在日本で一番高いビル「シブヤ333」。最上層の六十九階から七十二階までが吹き抜けの水族館兼展望台になっていて、此処は展望台のさらに上。外側の梯子を伝わないと上がれない屋上だ。
午後一時、気温は二十八度ぐらいのはずだけれど、そんなに暑くは感じない。むしろ風と高さのせいか肌寒いぐらい。けれど、
「こんなとこにいたら日焼けしちゃうな……」
ぼくも服も。
黒いレースを幾重にも重ねた日傘だけじゃ心許ない。手足が長めなせいか姫袖のブラウスは二の腕がはみだしやすいし、何より襟刳りが開いている。
「ねえ、外行き用にとっといたお気に入りなんだよ、これ」
前方に約五メートル先、ビルの縁から下界を睥睨している少女に向かって言葉を投げる。
彼女は無表情にぼくを振り返り、小さく首を傾げた。だからどうしたんだ、と言いたげなその表情に、ぼくは改めて嘆息する。
「……何時まで此処にいるのさ、ぼくたち」
ついでに吐き出した言葉はもうどうでも良い気分で一杯で、まともな質問にすらなっていない。
「……もうすぐ、来る」
この問答ももう十四回目になる。大体十分おきに繰り返しているから、もう二時間半近くここにいるわけだ。待ち合わせの為に。
彼女を見つけてから今日で十一日目。一緒に行動するようになってから八十四時間だ。
「…………」
彼女はまた下界に視線を移した。高所恐怖症の気があるぼくとしては、その視界は想像するだけで充分に背筋が冷える。
「……ぞっとするよな」
思わず漏らした呟きに彼女は顔だけ振り返った。なんでもない、と手を振って見せると何か疑わしげなものを見ているような眼をする。
──途端に内臓をナイフで突かれたような冷たい感触が身体を駆け抜けていった。彼女の疑念は意識せずとも他者を抉る(・・)。
その視線にぼくは一瞬ぎこちなく、すぐに滑らかに笑ってみせた。こんな
「何を見てるの?」
誤魔化すように言いながら彼女に近付いた……二メートルだけ。それ以上近付いたら風に押されて落ちそうな気がする。例え風が前から吹いていようと。
「街」
解答が簡潔すぎて反応しづらい。
「……街、ね……」
ぼくは何処かを鈍角に見据える。どちらにしても遠い。見えるのは町並みと何かが流れる様だけ──それは人なのか車なのか川なのか動物なのかそれとも木が揺れているだけなのか。
乱雑な都市計画のせいで渋谷の街は自然と文明が混ざり合う混乱地帯と化している。二千年代初頭から変わっていないのは、此処がファッションの街であることぐらいだ。最近は「渋谷の街に溶け込むファッション」と称して迷彩や自然色の服が流行っており、おかげで眼下を動くものは何が何やら見分けが付かない──そもそも付ける意味もあまりない。
彼女は真下を鋭角に見据えて沈黙している。びょうびょうと吹き付ける風にもその巨(おお)きな躯(からだ)はびくともしない。背丈相応の体重よりは軽いはずの彼女の身体は、しかし何か重苦しいものを飲み込んだかのように重厚だった。その存在は
そのまま、数十秒。なんとなく沈黙に耐え難くなって、
「ねえ、ウル……君のトモダチってさ」
再び声を出す。彼女は視線をこちらに向けないまま、小さく身じろぎした。構わず続ける。
「──何がしたいんだか、わかる?」
その質問を思いついたのはついさっきのことだった。
ぼくはただ彼女の願いを叶えたいと思い、そして彼女は親友の願いを叶えたいと思い……だからぼくはそれで満足してしまって、最終的に何をすべきなのかさっぱり考えていなかった事に気付いたのだ。
「…………」
彼女はぼくに向き直って一瞬口を開き、けれどすぐに足下の一点を睨み付けて考え込んでしまう。
数秒おきに視線の先端が推移していく。それを追い掛けるように小さな火花がコンクリートの表面をじりじりと焼いた。無機物すら殺す(・・)彼女の視線が、思考の推移に合わせてその威力を自然的に発露している。
「……ゆっくりでいいよ」
とぼくは声を掛ける。彼女はその“能”故にまともな会話をあまりしたことがないらしい。複雑なことを表現しようと思えば多少時間がかかるのは仕方がないことだ。
視線と言葉の呪力が彼女を縛り付けている。本来人にとって最も容易な伝達である言葉と視線こそが彼女にとって最大の武器であり、同時に強力な兵器である。故に彼女は言葉を容易に使うことは出来ず、人と視線も合わせられない。
単純に言えばコミュニケーション不全。それも社交性の問題ではなく、根本的な存在の問題だ。
そんなことを考えていたぼくの耳を唐突に、
「……皆殺し」
という呟きが通り抜けた。その言葉は意味のわりに呪詛を含まず、しかしその概念が周囲の空間を軋ませる。
「……皆殺し?」
「……この国の人を、皆殺しにする。……イコはそれを望むと思う」
そう言って眼を逸らし、あからさまに斜め下に視線を移した。
「皆殺しか……」
ぼくはもう一度呟いて腕を組む。日傘の柄を腕に引っかけ、軸を肩に載せて首で挟んだ。自然小首を傾げたような姿勢になる。
ちらりと彼女がぼくを見た。その目にはいつもの強引なまでにすべてを憎む恨みよりも、何処か不安そうなものが強く宿っている。苦笑いしそうになるのを抑えて、ぼくもまた視線を逸らした。
「……皆殺し、皆殺しね」
呟くぼくをこっそりと、しかししっかりと追う彼女の瞳は何処か不安そうに揺れている。
「親兄弟は別にいいよな、死んでも。
友達も別にいない。
好きな人もいない……」
態とらしい演技にすら見えるその行動は、しかし自分にとっても最後の確認だ。指折り数えていく。
「尊敬する人もいない。
愛されたことは……あったかもしれない。
けど認識したことはない」
腕を組んで首を傾げる。
「何か大事な人っていたっけかな。
……ああ、そうだ。動物も殺すの?」
唐突に言葉を振ると、彼女は焦ったように首(かぶり)を振った。普段の落ち着いた……というのもどうしようもない無感情ぶりからすると、少々滑稽なぐらいに慌てて。
ぼくは小さく笑って、
「じゃあ犬だけは殺さないで欲しいな。
後は別に……いいや、殺しちゃっても」
ちょっとした望みを彼女に言った。その返答に彼女は些(いささ)か驚いた様子でぼくを疑視する。咄嗟に腰のベルトに挟んだナイフで視線を
「もうちょっと慣れてよ」
苦笑い混じりに言うぼくから、しかし彼女は視線を外さない。ぼくは少々大げさなぐらい、けれど軽く、肩を竦めてみせた。
「信じられないものを見たって気分?
……まぁそうだろうな。君は強固な
だけど……こんなぬるま湯みたいな国の汚泥みたいな時代にもなれば、ぼくみたいに他人なんかどうだってよかったり、平和なんか無くなったっていいって思ってる奴もいるんだよ。
君たちみたいに状況が悪く無ければ、そう思う余裕もあるってものさ」
彼女はまだぼくから視線を外さない。
「……んー、どう言えばいいかな。
ああ、そうだそうだ」
ぼくは彼女に近付いていく……下は見ないように気を付けながら。見た途端に挫けてしまいそうなあたりがぼくの弱さだろう。
彼女は建物の縁近くに立っていたから下がることは出来ない。すぐに彼女の目の前まで近づけた。
手を伸ばして──彼女の手を取って、
「大事な人が一人いれば、もういいんだ」
軽く引いたと同時、風が吹き上げてきて彼女の身体がバランスを崩した。風だけでは揺らぎもしなくとも、人の手にはとても
どさり。
咄嗟に抱き合う形で倒れ込んだ。視界が青い空で一杯になる。
びょぉう、と音を立てて追い風が駆け抜けて行き、腕に引っかけていた日傘が煽られ、柄から先が引っこ抜けて吹っ飛んでいった。
柄もなく空を飛び去る黒い日傘は酷く滑稽だ。道具が己の本分を為さないで、そのくせ空を飛ぶなんて。とても、どうしようもなく滑稽だ。ぼくに似ている。
持ち物は持ち主に似るのだろうか、飼い主じゃなくても。いや持ち主と飼い主はどう違うのだろう。動物を所有する感覚で飼う現代なら、動物を生き物でなくステータスの一種とする人種なら、持ち主でも飼い主でも変わらないだろう。
そして今飛び立った傘は、正に首輪を引き千切る猛犬のように、隙間から逃げ出した仔猫のように、窓から飛び出したカナリヤのように、酷く自由に空を飛んでいく。持ち主を放り出したペット、飼い主を置いていく道具。
──進行している状況が一瞬で思考から離れてしまった。ぼくはこんな時だって不真面目だ、と思うと、思わずははは、と声が漏れる。
感じた視線に沿って、顔を下──横たわった身体の足の方──に向けると彼女はぼくをじっと見つめていた。その視線は不思議なものでも見るような眼で、けれどそれは害意でもなく疑いでもない。ただ、良く判らないという視線。少なくとも攻撃的ではない。
ぼくはもう一度ははは、と笑って天を仰いだ。
「──それでね、
大事な人なんて、君以外いないんだよ」
結局他に言いようがない。
基本的にぼくはアサハカだから、その親友とやらがどんなことを願おうとぼくに出来ることなら手伝うつもりでいた。
彼女が憧憬の対象であり崇拝の対象ではないならば、その感情は畏れに繋がらない。畏れのない憧憬は容易に恋情とすり替えられる。すり替えられるということは偽装も出来る。
だから今ぼくの中に渦巻いている感情は、恋心なんかじゃない。
下心。彼女の殺意を、性能を、極限を、到達を、行き詰まりを見届けたいという下卑た好奇心、知識欲。ただそれを恋心に見せかけているだけだ。
けれど誤算だったのは、自分の嘘に自分まで騙されてしまったことだった。だってこの気持ちはあまりに心地よかったから。今まで一度たりとも味わったことのない
だから好都合だと思うのだ。実に好都合だと。
どんなことでもやると決めたのだから、簡単なことぐらい全力でやらねばならないだろう。
それで彼女が──もし親友に対して接するのと同じように、ぼくに呪詛を向けなくなるのなら。
それ以外全てと引き替えにする価値は充分にある。
だから好都合だと思うのだ。実に好都合だと。
皆殺しなら簡単だ(・・・・・・・・)。
どんなことでもやると決めたのだから、簡単なことぐらい全力でやらねばならないだろう。
それで彼女が──もし親友に対して接するのと同じように、ぼくに呪詛を向けなくなるのなら。
それ以外全てと引き替えにする価値は充分にある。
「……なんで?」
酷く空虚な声がして、視界が薄暗くなった。空は何処までも青く、頭上を飛行機が耳障りな高音を響かせて飛んでいく。
胴体の上に暖かな重み。少し首を持ち上げて見れば、彼女はぼくの身体に寄り添うみたいに横たわって、ぼくの顔を見返している。
「……なんでだろうね」
そんなこと、自分にだって判らない。ぼくはまた空を見上げて呻くみたいに答えた。
第八幕「願い」
2014,08/20 15:49
「何、を……」
一瞬、空中に声だけを残して彼は倒れ込んだ。
「岩魚さん!」
咄嗟に名前を呼びながら手を伸ばす。
咄嗟に抱いた彼の肩、そして喉に触れている肩口に異常な感覚が触れる。
熱い。ただ触れただけで異常と判るほどの高熱が、呻く彼の身体に籠もっていた。左腕、太刀で切り落とされたその断面は、腫れ上がった肉で塞がれた状態になっている。その怪我に“治癒”で処置を施してから既に一時間以上が経った。“治癒”は自然治癒力を促進し、血流や体液の流れ、そして細胞の増殖を活発化する能力だ。だから“治癒”の過程で発熱するのは当然のこと。けれど簡易とは言え“治癒”を既に終えた怪我から発熱するのは異常だ。
触れている間にも体温は上がっていく。人間の限界は四十二度。それ以上になれば身体を構成するタンパク質が凝固して血流を阻害し、
私は咄嗟に悪魔を──メフィストフェレスを見た。私たちが『夜の果て』に脱出して後に描かれた戯曲で名を広く轟かせた悪魔。しかし私はその名を別の形で知っている。
「何、成長痛だよ」
と悪魔は笑った。優しげにすら見える笑顔、けれどそれは状況を楽しむ醜悪だ。私はその笑顔を睨み付けた。
「あまり人を睨むと殺してしまうよ、それは君の
笑顔を捉え所のない微笑にすり替えて悪魔は私に流し目を送る。
「……私は、」
「とはいえ、今はそんなどうでもいい話をしている時ではないな。
さあ、正直に言い給えよ。君の──いや、君たちの目的を」
そう言って悪魔は私の目を覗き込んで来た。
「さっき君は自分が何処から来たかを言ったが、何をしに来たかには一言も触れなかったな。タイミングの問題もあっただろうがね。今の状態は公正(フェア)じゃない、実にフェアじゃない。
彼は君への誓いを示し、君はそれに応えた。ならば君は真実を示す誠意を見せろ」
その言葉に私は、
「……私は、」
けれど、口籠もってしまう。悪魔は笑って私は見下ろす。
「意気地がないな。
……なら私が言ってやろう」
その言葉に私ははっと悪魔を見上げる。
「君たちは、」
その言葉を止める術は、
「地上に『帰還』しようとしている」
私にはなかった。
「……違うかね?」
楽しげに笑う悪魔。腕の中で脱力した身体がぴくりと動いた。
「…………」
私は沈黙を保つ。けれどこの沈黙が肯定にしかならないことは、良く判っている。
「けれども、」
そんな私をよそに、悪魔は続ける。
「──君は自分が何故此処に来たのか、本当は知らないだろう?」
こつん、と足音を立て、私に向かって踏み出した。咄嗟に答える。
「私は、この国の政府に交渉を……」
「はン」
鼻で嘲笑って悪魔は私にまた一歩近付く。
「まったく、長い話で曖昧にして良く口を濁したものだよな。君たちの“城塞”をこの国に降ろして、国家として成立させようという話だろう?
まったく、馬鹿げてる」
笑う悪魔、また一歩近付く。
私は重い身体を抱いて後退った。
「……君が気付かないわけがない。そんな夢物語が成立するわけがないんだ。君達が地上にいた時代なら兎も角──いや、その頃にしても充分過ぎる程の無茶だが──現代にそんな無法な海賊行為が成り立つわけがない」
──そうだ、だから私は口を噤んだ。
「そもそも何故この国を選ぶ必要がある?
この国ほど余分なスペースのない国も珍しいだろう。食糧自給率が四十一パーセントしかない経済能力に特化した島国に、金の持ち合わせもない中世人が降りてきてどういう交渉をするつもりだ。泣き落としでもするつもりかね?」
悪魔は私を嘲笑う。
──そうだ、その通りだ、そんなことは私にも判っていた。それが方便(・・)に過ぎないのだろうことも。
「だけど、私は……」
やれやれと肩を竦めて、悪魔はさらに一歩近付いてきた。私は後退ろうとして……出来ない。背中に壁が当たった。
「……君は彼処から、あの冷たい『夜の果て』から逃げたかっただけだろう?」
その言葉に咄嗟に声を荒げた。
「違います! 私は、本当に──」
──本当に、なんだと言うんだろう。自分の中の未整理の部分に踏み込まれて、私は混乱する。
悪魔は皮肉げに頬を歪め、また一歩近付いて来た。私は身を固くし、せめて出来るだけ彼の身体を悪魔から遠ざける。
「……認めないならそれも良いだろう。君ぐらいの年頃なら夢を見たって仕方がない。
塔の中の御姫様は何時だって
くく、と笑った悪魔は骨の右手を広げ、軽く床を蹴った。数歩離れた間合いの外から一足飛びに、硬い手のひらが私の首を掴み、そのまま壁に強く押しつけてくる。後頭部が堅い壁に当たって、ごず、と頭の中に重い音が響いた。
「“女王”本人の意向は兎も角だ。
君以外の二人、“女王候補”たちがこの国に降ろされた理由に想像が付かないわけじゃないだろう?」
悪魔は片膝を着いて私に視線を合わせる。締め上げられているわけではない。けれど首筋に押しつけられた硬い骨の指は、まるで刃物のように鋭く磨き上げられていて、
「理、由……」
私は呻くように言うことしか出来ない。
──怯えている、私は怯えている。
「そう、理由だ。
君は交渉役に向いているだろうさ、確かにな。逆に言えば君には交渉しか(・・)出来ない。
けれど後の二人は? 筋金入りの
けれどそれは喉元の刃のせいではなく、私は、
「前提(・・)が違う、ということだよ、なぁ? ミラベル・ビリーヴァ。
あの二人は交渉なんかしに来ていない。あの二人は、その本義を果たす為に、」
──その先の言葉を聞くことが、怖い。
けれど悪魔はその赤すぎるほど赤い唇を滑らかに動かして、
「皆殺しに来たんだ」
実に楽しそうに、笑いながら言った。
「確かにあの二人の能力なら、一億三千万人
言葉に私の身体は酷く強張って、腕の中の身体を強く抱き締める。
「……ミラ……」
囁くような彼の声にも、私は力を抜くことが出来ない。
「──さて、事実は出そろった」
そう言って唐突に悪魔は私の喉から手を離した。
「三日だ」
白骨の指、ナイフのようなそれを三本立てて私に示す。
「三日で彼の発熱は収まる。死ぬほど苦しいだろうが死にはしない。……運が悪ければ脳が駄目になるかもしれんがな」
そして今度は得って変わって優しげな、そそのかすような声で、
「四日後には残りの二人も動き出すだろう。今君たちを嗅ぎ回っている宮内庁の
最後の休息をゆっくり味わえ」
囁くように言いながら、その黒いスーツの背を向けた。
「……なんで」
その唐突な宣告に、私は力を振り絞って声を漏らす。歩みだした背中がぴたりと止まる。
「──なんで、そんなことをするんですか」
震える声をその背中に投げた。けれど、
「──三日後までに覚悟を決めろ。
逃げ出すか、それとも──」
黒い背中はそこで言葉を切り、私の言葉に応えることなくただそう言い捨てて、かつかつと歩み去っていく。
私はもう声も出せずにがくがくと震えていた。腕の力を抜く事も出来なかった。
2014,08/21 ??:??
長い三日間。
私たちは「事務所」と呼ばれる場所にいた。メフィストフェレスの擬態──「進藤」という人物が仕事場として使っていた場所。奥の部屋には二個ベッドが用意されていて、私は岩魚さんをその一つに寝かせた。
一日目は何も考えることが出来なくて、ただ熱に
冷蔵庫の中には暖めれば食べられる食事が沢山入っていて、私は何も考えずそれを食べた。味もしなかった。
それは、地上に降りて来てから一番長い一日だったと思う。
毎日隣に彼がいた。何かを喋っていたし、一緒に何かをしていた。世界が珍しかったのもあるだろうけれど、それ以上に彼と一緒にいるのが楽しかったのだと、今は判っていた。
彼は今も隣にいるのだけれど。
どうしても眠れなくて、彼のベッドの横で夜を明かした。
二日目はずっと考えていた。彼を看病しながら、食事をしながら、何も頭に入らずに私はずっと考えていた。
──私の心は逃げるなと言っている。
私たちは迫害で、暴力で地球を追われた。数十万の屍の上に出来た道を逃げた。……そして今度は、同じ道を違う人間に歩ませようとしている。
それは本当に……本当に、どうしようもなく愚劣な行いだ。犯さざるべき非道だ。
私はそこから眼を逸らした。既に逃げていた。
だから、これ以上
けれど。
私の前で魘されている人は、私を守ると誓った彼は、きっともっと苦しむだろう。それはただ身体が傷つくということではなくて……、人を殺すということだから。
能力者は殺さなければ止まらない。
特に“殺戮者”である二人──生粋の術師であり、能力者である彼女たちは無力化出来ない。腕が吹き飛ぼうが脚が消し飛ぼうが、意識さえ残っていれば能力は使えてしまう。そして極限まで鍛え上げられた意志力は、肉体的な限界すら乗り越えて意識を保つ。
だから彼女たちを止めるには、意識を完全に抹消する──殺すしかない。
結局何度考えても思考はそこに戻ってくる。
岩魚さんは私を守ると言った。彼は、私を守る為に人を殺す事になるかもしれない。
それは酷いことだ。一生残る傷だ。人は他人の命を背負えない。「人を殺した」という事実は人を壊してしまう。
彼が壊れてしまうことにきっと私は耐えられない。
彼が、私を大事だと言ってくれた彼が、出会ってから一週間と少ししか経っていない彼が、そうして壊れてしまったら。
──考えるだけでどうしようもなくて、私は泣いた。彼が見ていないから、泣いてしまった。零れる涙は拭っても拭っても零れて、スカートもブラウスも濡れてしまった。
一時間泣いて、自覚した。
結局私は、この人が好きなのだ、と。
私は彼を守ると言った。彼が人を殺すことになれば、それは苦しいに決まっている。
「私は……」
どうしたら、いいのだろう。
私が一人で死んだら、彼は苦しむだろうか──。
何時の間にか眠ってしまったらしい。
突っ伏した姿勢から身を起こした時、ベッドの中に彼の姿はなかった。今は夏という季節なのだと知っていたけれど、今日は何故だかとても寒く感じる。
部屋の中を見回す。人の気配はない。
少し焦って扉を開き、事務所──倉庫の中を改装しただけの部屋に移動する。
暗い。窓から鋭角に差し込んだ月光は、部屋の中に四角いスポットを作っていて、逆にそれ以外の闇は濃さをいや増している。
時刻はもう夜中──十一時を過ぎていた。静かな部屋の中では時計の刻むカチカチという音だけがやけに耳に触る。
冷え冷えとした部屋の中で、私は少しの間立ち尽くしていた。
──独りになってしまったら、自分がどうしていいかすら未だに判っていないのだ、私は。
絶望的な気分になって床に座り込む。また泣いてしまいそうだったから、ぐっと額に力を込めて抑え込んだ。泣いても何一つ解決しない。
けれど混乱した頭では、どうしていいか考えつかなかった。
どれぐらい経ったのだろう。事務所の扉が開いて誰かが入って来た。思考が鈍くなって反応も遅れている。
急に早まる足音と、がさっ、と何かが落ちる音。ゆっくり振り向くと目の前に二本の脚が聳(そび)えていた。
「……ミラ」
声がして膝が曲がり、視界に顔が入ってくる。頭にぽん、と手のひらが載った。
「あ……」
思わず声を漏らした。巻き込んでしまった人、私を守ると誓った人。まだ熱は下がり切っていないのだろう。少し赤い顔で私を見ている。
「……ミラ」
彼はもう一度私を呼んだ。
「……岩魚さん」
私はただ応えることしか出来ないで、そのまま俯く。すると、私の頭に載った彼の右手が私の髪をくしゃくしゃと撫でた。少し熱くて、でも心地よい。
「……何処に、いっていたんですか」
ぼそぼそと呟くような声で聞く。他に何を言っても恨みがましくなってしまいそうで、それは私が言えるようなことではない。
「ん……ちょっと買い物に」
その言葉に少し視線をあげて見れば、出入り口のすぐ側に中身の入ったビニール袋が二つ、落っこちていた。
私はまた、俯く。少しでも彼を疑わなかったと──逃げてしまったんじゃないかと、思わなかったと言えば嘘になる。だから、
「いってしまったのかと、思いました」
正直に言う。
「私を置いて、逃げてしまったのかと、思いました。
私は独りになってしまったのかと、思いました」
誤魔化してしまったら私は卑怯だ。
「──俺は、ミラを守るって言ったよな」
私を撫でる手が止まる。彼は小さな声で言った。私は俯いたまま頷く。
「でも、いいんです。もう、いいんです。
岩魚さんは、もう充分私を守って下さいました。左腕を失って、たった一人の仲間に裏切られて、思い出したくない過去まで思い出して。
まだ会ってからたった一週間しか経ってない私を、そんなに失ってまで助けて下さいました」
顔を上げて彼を見る。私の頬を熱い何かがつっと降りていった。慌てて手の甲で拭う。
だってこれじゃあ、私はとても卑怯だ。泣いたら彼は私を見捨てられない。判断を迷わせてしまう。
少しだけ間が空いた。彼の手が私の頭を離れる。彼が何かを言う前に、私は続けた。
「だから、今ならまだ、まだどうにかなるかもしれません。
私は逃げられないけれど、岩魚さんは、」
「──俺が、」
私の言葉を彼は少し大きな声で遮った。
「俺が、今更逃げられるような奴と思ってる?」
彼は声を落として言い直す。私は唇を噛んだ。
──そんなこと、本当は思いたくない。けれど……。
俯いて口を噤む。考えただけでもそれが現実を変えてしまいそうで。
「君がどんな道を選んだって、それで俺がどんな事になったっていい」
その言葉に、私は悲しくなって顔を上げた。
「でも……」
私の逡巡を、彼は打ち消す。
「俺が何を失ったって、それは君のせいじゃない。それは俺の決めた事だよ。
ミラが背負う罪なら、俺も背負ってやる。君が受ける罰なら俺も負う。
身体の傷をミラが癒してくれたように、俺は心の痛みを一緒に背負う」
一息にそう言って、彼は一度言葉を切り、
「……それが、守るってことじゃないかな」
そう言って、笑った。熱に汗の珠が浮いた、けれど力強い笑顔。だから、私は、
「……じゃあ、逃げられませんね」
笑い返す。眉根を寄せて、悲しいけれど嬉しくて笑う。
それは生まれてから今までで一番、嬉しくて悲しい言葉だったから。
三日目は二人で過ごした。倉庫の中からは出ないでずっと話をしていた。何をしている時も、ずっと会話は途絶えなかった。
話題はとりとめもなく散漫で、鳥の話、学校の話、大事なものの話、夜の話、音楽の話……家族の話。二人に同じ処はほとんどなくて、けれど空気はとても優しかった。次の日に起こることなんか忘れたみたいに。
そうして三日目は終わってしまった。流れるみたいに通り過ぎていった。
寝る前、電気を消してから、一度だけキスをした。唇同士が触れ合うだけのキス。
それから一緒のベッドの中で背中をくっつけて眠った。
その夜にあったのは、それだけ。
そうして四日目の朝が来た。
2014,08/24 07:56
シャワー──奥の部屋に添え付けられている──を浴びて、新品の服を着る。
ミラにはこの間──まだたった四日前だが──本人が選んだのと同じ服を買って来てあった。
「俺には選ぶ眼ないしな」
そう言って照れ隠しに笑った俺に、今日の彼女は柔らかい笑みで「ありがとう」と言ってくれた。
小綺麗な姿で二人、古い革のソファに腰掛ける。部屋の隅で埃を被っていた古いテレビから流れる朝のニュースは、三日前に起きた二つの事件──自衛隊の輸送機が謎の飛行物体と接触した事故と、シブヤ333ビルで起こった
ニュースが終わって、短いCMが入る。その間に立ち上がってテレビを消した。
時計が八時を告げた時。
唐突に窓から差し込む陽光がその日差しを弱めた。空気の流れが止まり、澱む。どんよりと沈殿したような重苦しい気配が周囲に垂れ込めた。
そして、出入り口の扉が音もなく開き、黒い影が現れる。
「──四日目」
と、頬ににやにやと歪んだ笑顔を浮かべたメフィストフェレスは、対面に並んだ俺達に告げた。
「……決断の時間だ」
そのまま出入り口から歩み入り、俺達の横を通り抜け、丁度座っていたソファの横、この事務所に唯一の机に腰掛ける。
「準備は良いか?」
言いながら懐から葉巻を一本取り出し、吸い口を噛み千切ってすぐ側のゴミ箱にぷ、と吐き飛ばした。
「…………」
ミラは無言のまま、こくりと頷く。ちらりと見やったその横顔は、やはり困ったように眉根が寄っている。けれど俺の視線に気付いた途端、彼女は眉根を寄せたままだけれど、笑って見せた。何時も通りに。
だから俺は視線への視線を逸らし、悪魔(メフィストフェレス)を見据える。
口に咥えた葉巻を挟んだ骨の指でばちん、と音を立てて弾くと、小さな爆発のように火が巻き起こって着火される。火花と同時に一瞬視界に入ったのはごく小さな異質の光──
すぅ……はぁ。
沈黙の中、少し時間を掛けた一服。紫煙が宙に舞い、澱んだ空気に滞留し、そして悪魔は葉巻を指に挟んだままつまらなそうに、視線を合わせる事すらなくミラに尋ねた。
「……ミラベル・ビリーヴァ。
覚悟は如何に」
その言葉にミラは一言、
「逃げません」
とだけ、応える。少しだけ震える声。けれどそれは決然として真っ直ぐだった。
対する悪魔はその言葉にく、と笑いを浮かべる。けれどそれは楽しげな笑みではなく、皮肉げで苛立たしげなものだ。
「まったく……思った通りに事が進み過ぎると
机に葉巻を押しつけ、ぐり、と捻り潰す。潰れたそれをゴミ箱に投げ込み、悪魔は溜息のように吐き捨てた。
2014,08/20 15:12
目の前にいる
三百三十三メートルのビルの上半分、オフィスフロアから上は血の海で──やったのは
まるで血の塊が動いているような、錯覚。
「男よね?」
と聞いた。ぼくは頷き、
「君は、女?」
と聞き返す。印象だけで判断するのは──自分自身も踏まえて──出来るだけ控えている。ましてや身長が百八十センチぐらいある癖に病気じみてがりがりに痩せた人間なんて、どっちだか判断が付かない。
するとそれは酷く不吉な笑みを浮かべて、
「女よ」
と答えた。まるでその瞬間、自分の血が何処かからどくどくと抜けていくような錯覚が脳髄を痺れさせる。
──多分この少女は、常に血を撒き散らす事を考えている。それが自分のものか他人のものか問わず。間違いなく、直感した。
「……イコ」
囁くような声。僕の隣の高い位置から聞こえたそれは、目の前の少女よりもさらに少し上から聞こえた。
「何よ、ウル」
少女は面倒臭そうに答える。ウルの邪眼を真っ正面から見据え、むしろ押し返すかの如き鋭い眼光。
そうか、とぼくは思う。
──彼女がこの少女を親友と見なしているのは、少女が唯一彼女の視線を正面から受け止められるからなのだろう。
唯一人、眼を見て話せる人間。
ぼくは変則的ながら眼を見て話せるが、それは彼女の
彼女が本当に真っ直ぐに話せる人間はこの少女だけなのだ。
──適わない、かな。
そんなことを心の端で思う。それでもいいはずだ。僕の望みは終わりを見ることで、程良い位置さえキープできていればいい。
けれど少し心の端がジクジクと痛んだ。
考えている僕を置いて、彼女たちは話を進めている。その言語は加速し、やがて酷く早くなっていく。まるでノイズのようにざりざりと音が立つ。
──理解できない。
少し眼を細めて集中すると、彼女たちの喉元に漂ううっすらとした光が見えた。つまり、彼女たちは言語を魔術化しているということ。想像でしかないが、恐らく原理的にはお互いの精神に言語を
「…………」
まぁ会話にはあまり興味がない。僕はついていくだけだ。まだ青い青い空を見上げて、僕は大きな欠伸をする。
会話はやがて段々と速度を落とし、やがて通常速度に戻ってきた。調律が解除されて同調が解かれたということだろう。
「……結局の処、予定は変わらないということね」
淡々と言うウルに、
「そう、今夜から“降下”が始まるわ。
そう言ってイコは笑う。僕をちらりと見て、
「スペードのジャックが手の内にある以上、相手がキングを出さない限り負けはないわ」
この例えはポーカーなのか? 良く判らないけれど。
ウルは小さく頷いて、僕に向き直った。
「……で、どうするの?」
僕は先手を打って尋ねる。二人は一瞬顔を見合わせ、イコがくすりと笑って、
「──そうね、まずは広い処に行きましょう」
と言って、屋上の扉に向かって歩き出す。
「広い処って、野原でも探すの?」
尋ねる僕に今度はウルが答える。
「……公園程度の広さで充分」
そしてその言葉にイコが頷き、
「目星は付けてあるわ」
と、さっさと歩き出した。ウルはその後を忠実についていく。まるで犬みたいに。
「ふーん……」
僕は小さく声を出してから、少しだけ不機嫌な心を押し込めて、幾らぐらい交通費があればいいんだろうなぁ、と酷くせせこましい事に気を逸らしながら後を追った。
8th track "I wish..." out...