2014,08/20 14:30
ごぅ……んっ。
低い音を立て、高層雲を突き破り、蒼天白日の下に鋼の巨躯が現れる。
高度六千メートル。日本の最高峰である富士山の約一.五倍の高度を行くのは、航空自衛隊入間基地に所属するC−1輸送機。数年前に新鋭機の導入が開始され、現在では一線を退こうとしている兵器の一つだ。
このC−1も、今回の兵装輸送が終わればバックヤードに回される予定のロートルである。
けれど、そのロートルが最後に何を見ることになるかを知っている者はその空域には誰もいなかった。
「──管制局、こちら
管制との通信を取る機長の声だけが狭いコクピットに響く。
「──J−1、こちら管制局。状況了解。以上」
そっけなくも聞こえる女の声が返答を返す。機長の頬に小さな笑いが浮かんだ。隣のシートに座った副機長、田中俊康はそんな機長の横顔に、
「──娘さん、おいくつでしたっけ?」
と声を掛ける。
「今年でもう二十四になるな。こういう男臭い職場の方が嫁の貰い手も多いだろう、なんて言ってたが…… 残念ながら恵まれないようだ」
普段はこのような話題に滅多に乗ってこない機長も、その目尻に小さな皺を寄せながら言う。
けれど、それも道理だよな。と副機長は思う。機長──ここ数年は新人教育の現場にも携わっているベテランの娘ともなれば、パイロット連中はおいそれと手が出せない。彼の厳しさと腕の確かさは散々見せつけられているのだから。
お嬢さんも不幸なことだなぁ、などと考えていた田中の耳朶を、突然緊迫した声が打った。
「──後方から微弱な熱源反応、
二人は一瞬顔を見合わせ、機長が通信機に手を伸ばし、田中がレーダーを再確認したその瞬間、
──ぎゅん、
と音がしたような気がした。
「え?」
二人の手が止まる。通信機の向こうから誰何の声。けれど二人はそれに答える余裕を持っていない。
輸送機の鼻先、二人の眼前の風防から
血のような
まるで絵の具で塗りつぶしたみたいに一色だけに染まった、けれど確かに少女の形を判別できる「何か」がそこにいた。
べたりと平手が風防に張り付く。呆然とした田中の横で機長が叫んだ。
「──管制!」
泡を食ったように管制が返答を返す。けれど機長が答える前に、
ばぎゃばぎゃばぎゃっ、
と硬質な音を立て、少女の両腕が風防を突き破り、引き抜かれる。穴から暴風が吹き込み、二人は咄嗟に顔面を庇った。びしびしと腕に当たる風防だった欠片。
そして暴風と一緒に少女は機内に
一瞬にして非現実的な紅が質感を持ち、少女の身体に肌色が着彩される。まるでボンデージのような赤くぬらぬらと光る衣装にのみ紅の痕跡が残り、肉体からは色素を抜いたように真っ白な肌。
「──貴様……」
田中よりも早く状況に対応した機長が声を上げた瞬間、少女の腕が真っ直ぐに伸ばされ、
「っ、っぐあぁぁぁぁぁあああっ!!」
苦鳴の叫び。
通信機の向こうからは悲鳴じみた声。もはや
「…………」
田中は動くことが出来ない。目の前で行われた暴力にも、機長の苦鳴にも、目の前の少女にも、対応することが出来なかった。
もしこれが銃器による殺傷であったなら、対応出来たかもしれない。けれどこんなに理不尽な行為に遭遇したことはなかった。少女の細い指が人間を壊す様など、想像したこともなかった。
がくがくと、身体が
少女はにたりと笑って、指に付いた血と潰れた眼球を口に含んだ。優雅な咀嚼。ごくりと嚥下。ねっとりと血を舐め取る。
「──美味し」
少女の漏らした声は酷く優しく陶然として、けれど暴風に書き消されることもなく、確固とした存在を持って場を支配する。
──箸が転がっても楽しい年頃なら、人を殺しても楽しいに違いない。田中は思った。
はぁはぁと荒い息を吐く機長がたらたらと血を零す眼窩を少女に向けて、
「……貴様、何者だ」
と呻く。少女は笑ってそれを無視し、
「ついでだし後の為に戦力を潰そうと思ったんだけど……ただの輸送機なのね、これ。……兵器の類は見慣れてないから良く判らないわ」
と、軽い世間話でもするように言ってくすくす笑った。
なんだと、と声を荒げる機長の口を、少女は己の唇で塞ぐ。一瞬で、昏睡したかのように機長の首ががくりと崩れた。ただ目だけが少女を睨み付けている様は機長までも人でなくなってしまったかのようだ。
「すぐに眠くなるわ」
少女が言う間に機長の瞼がぴくりぴくりと痙攣し、すぐに閉じた。
通信機の向こうからはまだ叫び声が聞こえる。少女は不機嫌そうに通信機を取り上げ、コードを引き千切った。ぶつん、と声が途絶える。
少女は田中に向かってくるりと振り返る。もしコ・パイシートに座っていなければ、田中は椅子を蹴倒して逃げ出していただろうが、シートはがっしりと床に固定され、狭い操縦室から逃げ出す道は少女が立つ狭い通路だけだ。
少女は細い指を田中の顎に這わせ、くっと持ち上げる。ドラマで見たキスシーンのように、二人の視線が絡み合う。けれどその視線は片やぬらりとした蛇の、片や睨まれた蛙の視線だった。恐怖だけが彼の中にあり、その個性すら薄れて消えてしまいそうなほどに怯えている。
少女はにっこりと笑って田中の顎を放し、操縦席から後部格納庫への扉を開いた。姿を追う彼の視線に彼女は笑みを浮かべたまま、バイバイ、と小さく手を振る。
何も出来ない田中を残してドアがばたん、と閉じた。彼は動けないまま、ただ呆然と壊れた風防から吹き込む風に向き直る。身体はまだ震え続けていた。
コクピットの惨劇は自動航行には関係無く、機体は正常な運行ルートを通ってただまっすぐに三沢基地へと向かっていた……。
格納庫には二十本ぐらいのロケット弾──で間違っていないはずだ、この先細りの筒は──と人員が三名。狭い機内でも悲鳴は通じなかったらしく、ただ短い旅の無聊(ぶりょう)を慰めようと下世話な雑談に興じている。
まず一人、続いて残りの二人。通路から現れた私の姿にぎょっと驚き、続いて立ち上がって近付いて来た。貴様、何者だ、何処から現れた、などとお定まりの台詞ばかり聞こえるので、私は少々不機嫌になる。
「……歳の深みもない癖にワンパターンだ」
呟きながら目の前に立った一人の開いた口に抜き手を突き込む。悲鳴が上がる前に手袋に包まれた硬い指先が喉奥を突き破った。そのまま抉り取る。ぐるんと白目を剥いて前のめりに倒れ、もたれかかってきた男はそのままにして、手についた唾液と血と脳漿を舐めてみる。
──酷く、不味い。脳味噌を使っていないのだろうか、この男は。
私はなおさら不機嫌になった。逆上したのか飛びかかってくる残りの二人にもたれ掛かってきた遺骸を突き飛ばして、脇に逸れる。殺すほど
と、背後で雄叫びがあがった。振り向いた途端、男の一人が振り上げた整備用の鉄器具が頬を掠めて肩口を叩き、めきっ、と言う音がして鎖骨が割れる。
距離は至近。切れた頬から流れ出る微かな血を指先に付けて、そっと男の鼻面に押しつける。じゅう、と小さな音がした。男は悲鳴を上げて鉄器具を放り出し、蹈鞴を踏んで後ろに転げ、倒れる。男の鼻は火で焼いたように黒く焦げ、先端は骨が露出した。
──お似合いだ。
少し愉快な気分になったので、もう一人の男に向き直る。見るからに腰が引けていて、酷く滑稽だ。思わずくすくすと笑いを漏らすと、砕けた鎖骨がずれて少し痛んだ。
笑い声に逆上したのか、それとも己一人が残されて奮起したのか、どちらだか判らないが男は足下に放り出された鉄器具を拾い上げようと身を屈める。そこを狙って振り子のように振った爪先で顔面を蹴り上げた。
ぼこん、と革袋を蹴ったような感触と、がぼっ、という空気が隙間から抜ける音。爪先が男の口をこじ開けて潜り込んだようだが、構わず蹴り抜く。男の頭が跳ね上がり、引っ張られて上体がぐんと浮く。勢いを押し殺して足を下に引っ張ると、またがぼっ、と音がして爪先が抜けた。若干の間をおいて赤黒い血が唾液と混じり、どろどろと溢れて鉄の床を濡らす。
結局三人とも相手にしてしまった。頭に血が昇りやすいのも少し困ったものだ。
他人ごとのように思いながら、ロケット弾に近付く。これを始末しておけば多少は楽になるだろう。
しかしこの場で爆発させるわけにもいかない。さすがにこの量だと巻き込まれれば無事ではすまないし。
──さて、どうしたものかな。
考えていると急にごぅん、と低い音がして目の前の壁が下から開き始めた。湿った空気の垂れ込める薄暗い格納庫に、びょうびょうという風音がしてやけに白々しい陽光が差し込んでくる。
振り返ってみれば、鼻を焼いてやった男が壁についたレバーを引き下ろしてこちらを睨み付けていた。
──なるほど、積み卸し用の扉を開いたわけか。
考えている間に男は酷い大声で喚き散らしながらこちらに向かって突進してきた。
──突き落とすつもりか?
背後の扉は既に大きく開いて人一人ぐらいなら悠々と飛び出すことが出来る。幅は私が二十人は並べる広さだ。
吹き込む風が男の喚き声を吹き散らす。私は咄嗟に反撃しようとして右腕を持ち上げ──、間に合わず男と
ぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐる。
視界は真っ白に閉ざされて、さらに回転して境界線がぐしゃぐしゃになっている。どちらが空なのか、どちらが大地なのか。認識出来ない。
男は私の胴をきつくきつく締め上げて、諸共に死のうという決意を隠さない。厄介なのは覚悟を決めた男だ。けれど生き汚い女よりは対処しやすい。
この男の失敗は私の右腕を捉えきれなかったことだ……。脳の何処かにあるトリガを押し込む。体温が急激に上昇し、右腕の肌、肘の少し下当たりが、びちり、と嫌な音を立てて裂ける。ボディスーツの右腕、長い長いベルトを巻き付けたみたいな構造になっている右の袖口のリングが体温の上昇を感知して金具を弾き、一人手に解けて傷口が露わになった。赤黒いというよりもむしろただ黒い血が噴き出す。空中に浮いたそれを左手で
粘液というよりもむしろ個体に近い感触すら持つ汚毒の血が手袋と男の顔面を諸共に焼き崩す。男の絶叫は大気の防壁に阻まれて私にすら届かない。
緩んだ腕の間を擦り抜け、ずり落ちる男の身体を蹴って少しだけ上に抜け出した。さらに男の頭を蹴り、一瞬の滞空。眼下を等加速で男の骸が落ちていく。顔面は焼き潰れて黒焦げ、ほとんど骸骨だ。
まるで安っぽい恐怖劇のようだと思うと楽しくて私は笑う。落下しながら声を上げて笑う。
私の笑いは私にしか聞こえない。私の笑いは私だけのものだ。ただそれだけで世界が自分のものになったような感覚。
一
──まぁ、いい。どうせついでの事だったのだし。
気分の良さに任せて放っておくことにする。輸送機はそのまま雲の影に消えた。
眼下に広がる街を見る。日本という島国の中にどれだけの人が詰まっているのか。この高さからでも数えることも出来ない。
──どうせ皆殺しにするのだ。
そう思えばどうでも良いことだった。
重りの入ったブーツを振り回して遠心力で上下を反転する。滑るように世界を落ちていく感触は、地球に初めて降りた時と似ている。
──ミラ。ミラベル・ビリーヴァ。
思い出したのはあの子の名前。
地球に降りる目的も知らされず、ただ保険として逃がされた本当は幸せな少女の名前。「
──私はあの子が大嫌いだ。
だから地球に降下した時に“力”を奪い取った。どうせ作戦行動の役には立たないのだから、余分な力を持たせるだけ無駄というものだ。
けれど、今となってはそれが失敗だと思える。あの子は
──それは酷く幸せなことではないのか。
私の全身を駆け巡る血はその全てが汚毒だ。けれどこの血が……その中に力がなかったら、私は何一つ生きている理由も無く、ただ省みられずに死んでいただろう。──その方が幸せだったのかもしれないと時に思うけれど、本当にそうなのかはわからない。
とろとろと流れる血が落下運動に従い、上空に向かって肌を滑り、焼いていく。己の皮膚すら傷つける毒血は、しかし傷口を焼き出血を止めて私を殺さない。血管は毒血に耐えられる強度を持っているから生きているだけで死ぬこともない。
思うだけで血が煮え滾るような気分だ。さっき裂けた右腕から再び黒い血が噴き出して大気の壁にぶつかり、焼々(しょうしょう)と音を立てながら私に追従して落下する。
ふと思いついた。
──ならば、
そうだ、簡単な事だ。
──殺してやればいいじゃないか。
その思い付きはとてもとても甘やかで美しい事だと思った。あの子をぐちゃぐちゃにして、ぐしゃぐしゃにして、どろどろにして、めちゃめちゃにして、殺して殺して殺して殺してあげれば、あの子は私と一緒になる。
同じように不幸だ。
幸せを誤認することもない。
私は何となく
こういうときの自分の嗤い声は不快なほどに侮蔑を含んでいて、いつだって耳の奥にこびりついて離れない。だから私はそれを何度も聞きたくなる──怖いモノを何度も見たくなるような、汚いものに触れたくなるような気持ちに近しい。
「くふ、くふふふ、ひぃゃははは、ひ、ひ、ひ、はぁははははは、ふふふ、ふふふふ、ひ、は、は、は……!」
大地を抱きしめんばかりに身体を真っ直ぐに伸ばして、謡うように嗤う。嗤い始めると発作のように暫くは自分で止めることは出来ない。衝動は一瞬で過ぎ去るのに、身体だけが嗤い続ける。
私の周囲に飛び散った霧のような毒血がずるずると周囲を回転して、多層に積み重なった幾何学模様の球体を形作る。それは精緻な構成の一つの意志の具現。世界と私を接続する
私の不自由な身体以外に、ただ一つ意志を忠実に再現するこの
……まったく滑稽な話だ、と思う。
この私……イコ・アンブロシオという名前を持つ私には、どうして
私は再び嗤いの衝動に飲まれ、けひけひと呼吸困難に喉を鳴らしながら、両腕を振り回して
その動きに同調して法陣球もまた回転を始め、血よりも赤い光を発する球体になった。私は喉を鳴らしながら、その光、私の意志を全うする回転に身を任せる。
回転はやがてベクトルを変え、法陣球は放り投げられたボールのように放物線を描いて飛び、その加速が頂点に達した瞬間、世界の
その速さ、そして力。
それこそが必ずや私の意志を叶える
決して私を見捨てない唯一つの──。
第七幕「追想と再認」
2014,08/20 15:32
「──久しぶり、だって?」
「巫山戯るなよ。俺はあんたなんかと会ったことはない……進藤を何処にやった」
俺は堅くなった声で女を詰問する。背後に庇ったミラは微かに震えている。
「わからない奴だね、君は」
女はそう言って肩を竦め、胸に手を当てて、
「私が進藤だ。いや、進藤が私だ、と言った方がいいかな?」
判るか? と小さく首を傾げて見せる。
その言葉に俺は小さく
「信用出来ない」
とだけ応える。そんな俺を見て、女は額に手を当て、肩を竦めて
「君は何時も…… 何時も自分の
その声が途中から進藤のモノに変わる。女の姿はそのままに、聞き慣れた声だけが倉庫に響いた。
「……どういう、ことだ」
応えながら思い出す。……この会話は昔、進藤と帰り道でしたことがあったはずだ。
「昔も言っただろう? 『何があったって不思議じゃない。相手が嘘を吐いていることだって想定しろ』とね」
ひゅるるる、と小さい音を立て、女の顔の回りにチリのようなものが集まっていく。見る間にその容貌が変わり、数瞬後そこには進藤の貌(かお)を持つ女がいた。
「人は簡単に嘘を吐く。
細面とは言え、明確に男の骨格を現す進藤の顔が、骨張った女の身体に載っているのは酷くアンバランスで気色が悪い。
「──そもそも君は
はは、と白々しい笑い声を上げて、進藤の貌を持つ女は白い右手で己の顔面を掴み、ぐしゃりと握り潰した。途端、指の隙間から塵芥がざらりと流れ落ち、女の貌が残る。
「自分に、嘘……?」
そんなことをしているなんて覚えは──
「ああ、そうだ。君は自分に嘘を吐いている。自分を誤魔化して、一人で逃げて、罪を両親に擦り付けているんだ。
……覚えてないだろ? だから私は君を拾ったんだよ。鳥海岩魚君」
女はにやにやと笑う。まるで肌色の面に切れ込みを入れたみたいに開いた唇から、また白い歯が覗いている。肉の中に白い面があるみたいに。
「……岩魚、さん?」
ミラが耳元で心配げに小さな声を出した。俺は答える事も出来ずに歯を食いしばっている。
「頭痛かい? 君の神経は自分を誤魔化すのに必死だな。
けれどそろそろ思い出したまえよ。私はこの状況に飽き飽きしているんだ」
女が無造作に一歩踏み出す。俺はミラを背中で押しながら一歩下がろうとして、無様に転げた。足が……いや、全身が震えてまともに力が入らない。
「……やれやれ、酷く守りに入っているな。荒療治が必要らしい」
コツコツと革靴の踵を鳴らし無造作に近付いてくる女から俺を守ろうと、ミラは俺の身体を抱いて地べたをずるずると後退る。
「何を……する気ですか」
ミラの声は酷く硬く、まるで割れたガラスのように尖っていた。突き刺されば折れてしまいそうな、脆い硬さ。
「思い出させるだけだ」
女は笑う。いや……
「彼はもう三年間も逃げ続けた。いい加減に戻ってきて貰わないとな。
何せ君を守る
ミラはぴくりと身を動かすが、それでも俺の身体に回した少し震える腕に強く力を入れて、きっと女を睨み付ける。
「……思い出したくないような過去を無理矢理思い出させてまで、守って貰おうなんて思いません」
その言葉に女はまたくつくつと笑う。
「だが、それでは君は死ぬ」
「構いません」
女の言葉にミラは即答する。その頬に、いつも通りの、誰かを元気付けるような笑顔を浮かべて。
「私の為に誰かが死ななければならないなんて、そんなことは有り得ません。
私は、私の理由でここにいるんだから……それで死ぬのは私のせいです」
その真っ直ぐな、けれど少し震えた声を聞いたから。
俺の震えは何処かに消えた。
「……ミラ」
俺は身体を起こし、彼女の腕の中を離れて立ち上がる──そこはとても心地よい場所だった。だから、其処にいてはいけなかった。
そして、女を睨み据える。
「……メフィストフェレス。
俺の記憶を、戻せ」
俺の声にさっきの弱さはもう、ない。
「……岩魚さん」
背中にミラの声。顔だけ振り向いて少し笑う。──今、俺はミラみたいに笑えているだろうか?
「……君は、逃げてないよな」
──だから、俺も逃げない。
後ろ半分は口にしないで真っ直ぐ女に向き直る。身構えず、ただその眼を睨み付ける──深く、暗いまるで穴蔵のような黒瞳を。
女は一瞬不機嫌そうに頬を歪め、しかしその表情はすぐににたりと歪んだ笑いに戻った。額に指先を当て、目元を隠すように髪を掻き上げながら、小さな声で囁くように言う。
「成る程、面白い見せ物だ。
わざわざ正体を明かした甲斐もあったと言うものだな? なぁ、身体(ボディ)よ」
言いながらも、誰に応えを求めるでもなく、俺に向かって向き直る。そして右手の手袋を取り去った。
そこにあるのは、白骨の手。
俺とミラは一瞬息を飲む。だが女は笑顔のまま、
「痛みがあるわけでもない。ただの契約の証だ」
骨の人差し指を己の右眼の一センチ程下の処に強くと押し付けた。
音も立てずに細い骨が皮膚を突き破り、肉を裂いてずるずると頬に向かって引き下ろされる。何故か音も立たず、血も流れない。三センチ程度の縦長の穴が開いた。
肉の色の覗くその穴が一瞬真っ黒い虚と化し、次の瞬間、縦長の瞳孔を持った金色の第三眼が其処に現れ、ぐるりと一回転して周囲を睥睨する。
笑う女の顔の中でただ無表情なその眼と視線が合った瞬間、俺の視界は回天し、そのままぐるりと
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──夢はいつもどおりにけぶるような霧雨から始まる。
聞こえ続けているのは足下の葉を打ち鳴らすさらさらという音。白く煙った視界。世界は雨に支配されている。
けれど寒くはない。視覚と聴覚だけが切り離されたように此処にある。足の裏の感触は柔らかな無。けれど見えるのは下繁えの草だ。
「……お母さん、」
誰かが呟いた。
振り向くとそこに子供がいた。泣きそうな顔で草原を駆け抜けて行く子供。
「……お父さん、」
声を掛ける気にもならない。この子供は
親という存在に依存していた頃の、幼い頃の俺──『僕』──だ。
「……──、」
唐突に走るノイズ。スピーカーの向こうで喋っているような『僕』の声が、ざりざりざりッ、とまるで紙ヤスリを擦り合わせたような耳障りな音に妨害される。口が動いたが、何を言っているのかわからない。唇の動きが読めるような特技の持ち合わせもない。
すぐにノイズは途絶えて、またさらさらと降りしきる雨と、さくさくと下繁えを踏む音。
俺は自分を──『僕』を追い掛けた。
何時も不安だけを煽る追撃者の姿が、今の俺にははっきりと見えた。
それはどう見たって、両親だった。
怒りに眉根を寄せ肩を怒らせた父と、無表情にふらふらと彷徨うように歩く母が、早足で、そのくせのろのろと『僕』に向かって歩を進めていく。
『僕』は何度も後ろを振り向きながら追撃者を振り切ろうと走る。遠くにある光、暖かいはずの『家』に向かって逃げる。
二人は必ず一定の距離で『僕』の後ろにいた。何処までも逃げ切れないが、追いつかれることもない。
永遠のように感じる逃走。『僕』が走れば走るほど草原の草は繁茂し、視界が悪くなっていく。
ただそれは四年前の俺にとってであり。
今の俺にとっては、胸元まである高い草に過ぎない。走っていく『僕』の後ろ頭を見ながら草を掻き分けることもなく擦り抜けて行く。
視界が急に
いつの間にか俺は薄暗い廊下にいた。すぐ目の前に幼い『僕』の背中の向こう、差し込む明るい光は暖かい過去の残滓だ。
ガス台にやかん、赤い鍋。電球の白い傘に、白いお皿の並ぶダイニングテーブル。何時も通りのセッティング。
けれどテーブルの向こう側、子供用の椅子の上には見知らぬ女の子が座っていた。いつもの黒いギザギザはなく、女の子の姿がしっかりと認識できる。
机の上に置かれた絵本は「赤いくつ」だ。
──こんな怖い話を読むと夜おトイレに行けなくなるぞ、って何度も言ったのに。
女の子は『僕』を見て笑い、口を開く。何時もは見えている黒い瞳は、何時もとは逆に黒いギザギザに塗りつぶされていた。
──しかしそれよりも、今この頭の中を駆け巡る覚えのない感情は、一体何なのか。
俺に関係なく夢は進んで行く。女の子の口の中、喉の奥の方には、何時も通り黒いギザギザが立ちこめていて、
──(ざりざりざりざりざりざり)……
結局ノイズしか聞こえない。
何も言えない『僕』に女の子は首を傾げて、
──(ざりざりざりざり)ぃ……ゃん?
小さな声に混じっている疑問はいつもよりも少しだけ聞き取りやすかった。
女の子は高い椅子から降りる。僕に背中を向けて、ずるずると滑り棒を降りるみたいに。
──そんな降り方してるとパンツが丸見えだぞ、って何時も言ってたのに。
また正体不明の『想い出』が何処かから現れて、僕の頭の中を駆け巡る。
──何時もって、何時のことだ。
思う間に、女の子は椅子から降りてちょこちょこと歩き、呆然と見つめる『僕』を見上げて、
「──ねぇ、どうしたの、──?」
と言った。黒々と塗りつぶされた眼窩がまっすぐに俺(・)を見つめている。『僕』を貫いたのは虚空。視線ですらないそれは『僕』の身体を貫通し、まるで俺にまっすぐ注がれているような錯覚を覚える。
そして急に滑らかに流れ出した幼い声。聞き覚えのあるその声に、俺の背筋は冷たく震える。駆け上がるのは寒気だけじゃない。
しかしその感覚を確かめる間もなく、突然、俺の身体を突き抜けて腕が伸びた。長く逞しい、黒い影の腕。どん、と音を立てて『僕』の身体が宙を飛ぶ。
がっしゃぁん。
盛大な破砕音と共に目の前にあった『僕』の身体が、テーブルを巻き込み押し倒し、皿をばらまいて割り砕き、フローリングの床で一度跳ねて、そしていつの間にか座らされた人形のように
未だ貫かれたままの俺の身体に、痛みはない。俺の身体はその場所に存在していないのだから、夢の黒腕に痛みを感じるほど敏感ではない。
が、黒腕は俺をその空間に縫い止めてしまったかのように身動きがとれない。頭と目玉を取り残して視界だけが勝手に右回りで回転し、自分の真後ろ、立っている廊下が見える。
そこには悪魔が居た。
黒いスーツの女は俺を嘲う。
「早く思い出し賜(たま)えよ」
がたん、と音がした。視界は高速で左回りで逆回転し、真っ正面に戻る。まるで慣性のせいで行きすぎたみたいに一瞬ぶれた視界の中に、『僕』を吊り上げる父親の姿が映る。
──お前が(ざりざりざり)を……ッ!!
父親の罵声もただ一点に集約されたノイズを纏う。まるでそこだけテープが切り取られているかのように、音を排除された言葉。
俺の背後からはすすり泣きが聞こえる。母親の泣き声はまるで自分まで死んでしまったかのように虚ろで空しい。
──(ざりざりざり)ちゃん……。
ともすれば笑っているようにも聞こえる嗚咽の中に幾度も混じるノイズ。掻き消されているのは
ぽたぽたぽた、と吊り上げられた『僕』の爪先から汚水が滴る。口が小さく動く。何時ものことだから、聞こえなくても、唇が読めなくても判る。
──ごめんなさい、ごめんなさい……。
幾度も呟いている。
けれど俺は、このとき初めてその情景を客観的に認識した俺は、自分が何に謝っているのか判らなかった。
倒れたテーブルの向こう、部屋が暴虐で埋め尽くされる前と同じようにただ一つ残る子供用の椅子の上。
女の子は座っている。
彼女は塗り潰された目で俺を見て、そしてにっこり微笑んだ。
「──ねえ、お兄ちゃん」
その言葉を聞いた途端、ばきん、と何かが割れるような音がした。
いつの間にか部屋には誰もいない。『僕』もいない。薄暗い部屋にはダイニングテーブルと四脚の椅子が静かに、立ったまま死に絶えた草食獣のように立ち尽くしている。かちこちとなる壁掛け時計の示す時刻は午前十二時。
ばきん。
また音がした。閉ざされたカーテンの向こう側で、割れたガラスがかしゃかしゃと音を立てて落ちる。
ばちん、と音がしてキーが下がった。からからと小さな音を立ててサッシが開く。カーテンが乱暴に引き開けられて、黒い男が入って来る。
……いや、男と言うのも確かではない。黒い
黒い男は室内を探ることもなく、音も立てず堂々と歩いて廊下に出た。俺の視界は滑らかに男を追走していく。通帳や印鑑が入った戸棚を通り抜け、階段を登る。誰もいないかのように音はしない。
登り切ったそこは廊下。四つの扉、三つの部屋。夫婦のベッドルームと繋がったドレッシングルーム、子供の寝室、遊び部屋。子供部屋には分かりやすくドアにプレートがかかっている。
男は迷わず子供部屋のドアを開けた。──これは俺の想像でしかない。だから男はモノを盗む必要もない。ただ役割さえ果たせば──。
──酷く嫌な予感がする。
男の役割は果たされてはいけない。
けれどドアは開き、室内の少しむわっとした空気が溢れ出した……その感触は想像でしかないのだが。
電気の消えた部屋、カーテンは閉まっていても、大きな窓から差し込む陽光はそれを擦り抜けて部屋をそこそこに照らしていた。
部屋の端、ドアをまん中にして左右の隅に学習机とベッド。掛け布団や座布団は片やブルー、片やピンクで分かりやすく所有者を示している。
ブルーのベッドには『僕』が寝ている。額に熱冷ましのジェルシート、机の上には温い水の入ったコップとメロンパン、そして白い錠剤と水銀の体温計。計ったまま振られていないそれが示す数値は三十八度七分。少し苦しげな息、けれど眠っていない。枕元に「赤いくつ」の絵本。
かちゃ、と音を立てたドアに『僕』は緩慢に振り返り、そして跳ね起きた。黒い男は狼狽したように左右を見回し、すぐに懐から何かを取り出す。
黒い男の手の中でぎらぎらと光を反射するナイフ。しっかりと形を見るまでもなく、それはぐるりと動き、男はもやのような身体を撒き散らしながら動き出す。
咄嗟に『僕』は枕と布団を投げつける。男の顔面を一瞬塞いだ枕は、すぐに床に叩き落とされた。が、『僕』はその隙に廊下に飛び出した。
階段の上、立ち止まる。降りるには背中を向けなければならない──後ろ向きに見ないで降りられるほど階段の傾斜は緩くない。
男は『僕』を追って廊下に飛び出し、部屋の入り口で『僕』と向かい合った。階段から部屋の入り口まで二メートル強。場慣れしていれば一足飛びで越えられる距離は、しかし小学生の『僕』にも切羽詰まった男にも近くはなかった。
そのままきっかり十秒、睨み合っていた。男が動けば『僕』は階段を転げ落ちてでも叫びをあげるつもりだ。そして男はその声を出される前に『僕』の口を封じなければならない。
声を出すことはこの場合、『僕』にとって唯一の
その時突然、賑やかな声が聞こえた。がちゃがちゃと鍵を回す音、玄関が開く。わいわいと楽しげな気配と、ただいまー、という元気な声。僕は咄嗟に、
「来ないで!」
と叫ぶ。咄嗟に男が一歩踏み込む。僕は階段を一歩下りる。
父親と母親が気配を察したか、「どうした?」「どうしたの?」と声を掛けてくる。答える余裕はない。『僕』はちらりと背後を見た。階段の下、まだ誰も玄関から上がってきていない。
その瞬間、男が動き出した。視界の端でナイフが揺れる。『僕』はとっさに背中を丸くし、頭を両腕で庇いながら階段を蹴った。宙を舞う。
このまま『僕』が落ちても、男に刺されて怪我はしない。骨折はするかもしれないけど、そのぐらいなら大したことはない。
ああ、これでどうにかなる。と、俺すらもそう思った時。
スローモーションで落ちていく『僕』の下で、悲鳴が聞こえた。
放物線状の落下軌道。その終点に、女の子の姿があった。目をまん丸くして『僕』を見上げている。やがてその表情が恐怖を訴え、頭を庇ってしゃがみ込み、丸くなった。
『僕』は混乱する。俺も混乱する。
──なんで、なんで、なんで!!?
混乱した視界の中に銀色の光が飛来する。ナイフ。男の手から投げつけられたナイフ……『僕』に向かって。しかしそれは大きく狙いを逸れ、まっすぐに女の子に向かって飛んでいった。頭を庇って丸くなった女の子の背中に向かって、まっすぐに。
『僕』はさらに混乱する。俺もさらに混乱する。
守らなければ、と無意識が叫んだ。守らなければ、と意識が軋んだ。守らなければ、と脳髄が呻いた。
その為に『僕』に出来ることは──、
落下していく時間、知覚が拡張されスローモーションになっていた時間が、さらに遅くなる。
額に青白い火花が散るような感触。そこにあるのは力。守る力。
今まで知らなかった自分の
頭を庇う腕を広げ、真下に。火花が弾け、力が炸裂する。『僕』の並より小さな身体が処理回路となって
『僕』の意志のままに現れる“壁”。
落下する『僕』の手が伸びた斜め下、女の子の目前に階段の幅一杯に現れたそれは、壁にめり込みぎしぎしと軋らせながら、ナイフを受け止める。余剰した力が炸裂し、ただのナイフでしかないそれは、ばがん、と音を立てて弾け飛び、階段の途中の段に突き刺さる。
ナイフを追った視線は階段の上に向く。男は既に逃げ出したのか、その姿は跡形もない。
まだスローモーションの世界の中で、緊張がとけ、意識が弛緩する。『僕』は“壁”を掻き消そうとした。
出来ない。
“壁”が、消せない。やり方がわからない。集中力を欠いた自分では、自分の力さえ扱い切れないというのか。
それどころか意識が寸断されそうな程に重い。初めて使った力は想像以上に『僕』の自由を奪った。
抵抗出来ないまま、『僕』の身体は放物線の終点に辿り着くこともなく、“壁”の上端に激突して引っかかった。
“壁”の重量は体積に比例し、安定性と強度は体積に
高さ二メートル近く、幅一メートル強の“壁”は、ナイフの一本や二本なら容易に止めることが出来るが、加速のついた『僕』の身体を受け止めて安定を保つことは出来ない。
そしてその重量は百キロを越える。
──後になってこの力をしっかりと研究した末に知った。
上端に激突され安定を失った“壁”は、激突した『僕』の運動エネルギーのベクトルに従い、倒れた。
女の子を、
──妹を、押し潰して。
──俺の前で、妹がくるくる回っている。
雪の日にはしゃぐ子犬みたいにくるくる、くるくると楽しそうに。
けれど俺の身体は十四歳で、妹はあの時のまま、七歳のままだ。
妹は俺に抱きついてくる。お兄ちゃん、一緒にいると楽しいね。なんて、冗談めかしもせずに言う。
妹がくるくる回っている。オルゴールの飾りのバレリーナ人形みたいに、楽しそうにくるくる回っている。
俺はちょっと笑って空を見上げた。灰色の、今にも泣き出しそうな暗い空。
──ずどん。
酷く、重い音。視線を戻す。
潰れている。
赤と白と肌色がぐちゃぐちゃに混ざり合って、広がっていた。
手を見たら真っ赤だ。顔にもべっとりこびり付いている。足を
妹が潰れている。
潰したのは、
2014,08/20 15:44
「────」
気付けば膝を着いていた。目の端に涙があった。足下のコンクリートが黒々と濡れている。声も出ない。
視界に黒いスーツの足。革靴の爪先がカツカツとリズムを取るように上下動している。なぞるように視線をあげれば、そこにあるのは女の顔。傷口から現れた金色の眼は既に閉じ、ただにやついた笑顔だけが残っていた。
「
女──メフィストフェレスの言葉に、俺は目尻の涙を拭って、ゆっくりと首肯した。
「……もう、結構だ」
声が酷く掠れている。軽口を叩く余裕もない。
メフィストフェレスは楽しそうに笑う。悪魔らしい笑顔だ。実に楽しそうな嘲笑。
「それは重畳。
それで、君はどうするのかな?」
メフィストフェレスは楽しそうに笑う。
俺は答えない。答えられない。
「妹を潰し殺した君が」
一言が心に響く。足が震える。
答えない。答えられない。
「守る力で守るべきものを殺した君が」
一言が心に響く。手が震える。
答えない。答えられない。
「彼女を守るなどと」
一言が心に響く。心臓がどくどくと強く脈打つ。
答えない。答えられない。
「──まだ、言えるのかな?」
答えない。答えられない。
俺は俯いて足下を見つめる。
「……岩魚さん」
背後から囁くような声。振り返ればそこにミラがいる。当然だ、位置関係は変わっていない。けれど少し意表を突かれて、びくりと身体が震えた。背後でメフィストフェレスはにやにや笑いを崩していないだろう。
ミラは俺の眼をまっすぐ見据えた。俺も真っ直ぐに見返す。
「俺は──」
「私は──」
二人の声が重なり、一瞬口を噤む。
けれど、意を決した。
「──もう二度と、大事な人を失いたくない」
「──もう二度と、貴方を苦しませたくない」
意志が重なる。
「俺は、ミラを守る」
妹を失ったから。己の力で、過失で、無惨に殺してしまったから。その事で家庭を壊してしまったから。両親すら失ったから。
だからこそ、
「もう二度と大事なものを失わないように。
──俺は、ミラを守る」
「私は、岩魚さんを守ります」
ミラは俺を見て微笑む。何時も通りの少し哀しそうな笑顔。
大事なものを幾つも失った俺に微笑む、最後の『大事なもの』。
「もう二度とあなたを苦しませないように。
──私は貴方を守ります」
二人の思いも、意志も違うものだ。
けれどそんなことは当たり前だ。本当に同じ事を心底から思える人間なんていやしない。
過去の幾多の経験が、それによって培われた二つとない精神が、ただ偶然同じ方向を向いた。それだけだ。
──けれど、それだけで充分だ。
ぱん、ぱん、ぱん。と気のない拍手が響いた。
「いや、まったく恥ずかしくなるね」
にたにた笑う女に、俺はまっすぐ向き直る。
「どうする気だ」
俺の声に女は肩を竦めて、
「私個人としてはまったく気にくわない限りで、『私』というこの身体の持ち主は今すぐ君らを引き裂いてやりたいぐらいなんだが」
言いながら、身構える俺を身振りで抑え、
「あいにく『メフィストフェレス』御本人は酷くご満悦のようだ」
と、酷く不可思議な表情を浮かべた。顔の右半分はとても楽しそうに笑い、左半分は反吐でも吐き捨てそうに歪んでいる。人間にはありえない二つの感情が同居する表情は、酷く奇妙だがこの女には似つかわしく見えた。
と、右側の笑顔が左側の憎悪を駆逐し、満面が笑みに変わる。どういうことだ、と声を上げる間もなく、
「まあ、君の件は『メフィストフェレス』の計画なのでね。まったく予定通りというわけだ」
言いながら女は俺に向かって一歩近づき、
「……では
無造作に右手の指で俺の額をとん、と突いた。
「何を……」
声を荒げ、態勢を変えようとした瞬間、先ほどとは比にならない程の頭痛が俺を襲う。足に力を入れるどころではなく俺は後ろ向きに倒れ込んだ。
「岩魚さん!」
やけに近いミラの悲鳴。ああ、そうか。後ろにはミラがいたんだものな。やけに柔らかい感触はミラの身体だろうか? ……俺は何度ミラに助けられるんだろう。
視界の中には黒い女のぼやけた輪郭が残っている。その黒が世界を飲み込んでいく中、ただ聴覚だけが最後に言葉を捉えた。
「何、
7th track "Mephistopheles" out...