2014,08/20 15:03

 ──どさり、と投げ出されるように身体が横になった。ミラは隣に座り込んで荒い呼吸を吐いている。
 体格だけは俺より大きいとは言え、男一人分の体重を運んで歩き回ることは彼女の細い腕では重労働だったに違いない。血の気が引いて、まるで幽霊のように青白い顔をしている。
 しばし二人、無言のまま呼吸だけを続ける。
 公園からコンテナだらけの倉庫を抜けて、俺達は進藤のいる倉庫兼オフィスに向かっていた。
 片腕を切り落とされ、片目を潰されたが、俺達は病院に向かう訳にはいかない。綺麗(クリーン)な偽造戸籍を持っているとはいえ、これだけの怪我を負って病院に行けば間違いなく警察沙汰になる──左腕は公園に落としたままだ。騒ぎになっていてもおかしくない。警察の介入は──当然だが──望ましいことではなかった。俺は未成年で、身寄りもなく、末端とはいえ“組織”と繋がっている。身辺を探られれば俺がどんな仕事をしていたかすぐにバレてしまうだろう。そのまま少年院にでも押し込まれるに違いない。
 それに、昼日中からあんな場所で荒事を仕掛けてくるような人種──確か「宮内庁防衛局」とか名乗っていたはずだ──が、このような状況に何らかの対策をとっていないとは思えなかった。
 探湯という男自身は俺達を見逃した。しかしそれは間違いなく奴の()にとってプラスにならないことだろう。奴が手を出して来なくても別の人間が襲ってくる可能性もある。──何にしても一般の病院や警察には行けないということになる。
 乱れていた息が(ようや)く整ってきた。とは言っても呼吸が荒い事には変わりない。切られた腕と潰された眼、出血は止まっているが、両方がまるで火でも着いているかのように熱く、痛い。ミラの力で悲鳴を上げるほどではなくなっているとは言え、身体はそう簡単に対応出来ない。痛みを緩衝する為か、頭の中にうっすらと霞が掛かったような状態が続いている。しかし、此処で意識を失う訳にはいかなかった。俺達が此処から逃げる為には、資金も能力も足りない。この最悪の状況の中で、俺が頼れる相手は進藤しかいなかった。
 ともかく、進藤の倉庫まで辿り着かなければならない。

「……なぁ、ミラ……」
 全身が末端から壊れていくような高熱の感覚。倦怠感と苦痛と嘔吐感を胸に押さえ込んで声を絞り出す。
「……なんですか、岩魚さん」
 ミラは俯いていた顔を少し上げて、横たわっている俺を見た。額からさらりと汗の雫が流れ、高い鼻梁と控えめな唇の端を通り抜けて顎から落ちる。買ったばかりの白いブラウスと青いスカートが俺の血で赤黒く汚れていた。
 その顔に浮かんだ表情は笑顔だった。不安や苦痛、多くのマイナスの感情、それらを内に飲み込んで、彼女は俺に微笑んでいる。……多分、俺を安堵させるために。
 溢れそうになる「ごめん」を肺腑に押し止めた。許されたのに、誇りすら抱いてくれたのに、謝罪してはいけない。

 それは、彼女の誇りへの冒涜だ。

 頭の中で何度も繰り返して「ごめん」を何処かに追いやった。それから一つ息を吐いて、
「……教えて欲しいんだ。
 ……君が何処から、何をしに来たのか」
 言った俺に彼女は小さく頭を振って、
「……これ以上あなたに迷惑はかけられません。私は何処まで行っても追われる身だけれど、あなたは巻き込まれただけですから」
 眉根を寄せた笑顔で応えた。
 けれど俺はそんな風に笑えない。
「……俺は迷惑だなんて思ってない」
 ミラは困ったみたいに笑っている。
「……駄目ですよ」
 呟くように言う。悲しそうに、けれど笑っている。

 けれど俺は、そんな顔は見たくないと。
 ただ、今はそれだけしか頭になかったから。

 痛む身体は両手を使わないと起きあがれないぐらい弱い。まず重い身体をごろりと転がして俯せになった。身体と地面に挟まれて圧迫された左腕が一瞬凄まじい痛みを伝えてくる。ぐ、と唇を噛んで苦鳴を抑えて、膝を着き、腹背筋の力で身体を起こす。
 随分視線の高さが近付いた。
 ミラの瞳が気遣わしげに揺れている。
「……誰かを守りたいなんて、大事にしたいなんて思ったのは、初めてなんだよ」
 言って笑い返す。彼女の辛い笑みに。
「……関わらせてくれ。君に」
 譫言(うわごと)みたいに口から言葉が漏れる。
 ぼんやりした視界に、ふと少し持ち上げられたミラの指先が入ってきた。真っ白で細い指先。
 ──誓わなければ、という思考が、ふと頭に浮かんだ。
 折れた右手を無理矢理じりじりと持ち上げる。神経が死んでしまったのか、それとも何処かがおかしくなってしまったのか。痛みはほとんど感じない。
 彼女の伸ばした手に触れる。軽く引っ張って、その指先にそっと唇をつけた。

 そのまま、数秒。

 音も、空気すらも止まってしまったかのように時間が過ぎる。そっと唇と手を離して彼女の顔を見上げると、血の気の失せていた頬がゆっくりと薔薇色に染まり、困ったみたいに寄っていた眉根がふんわりと解けていった。
 そのまま暫く見つめ合う。何も言えず、何も出来ないままで。
 差し出したままだった右腕が重力に引かれてぱたりと膝に落ち、
 ──唐突に鈍いが、重い痛みが右腕から全身を駆け巡った。咄嗟に苦鳴を抑え込もうと唇を噛み締めると、ぶつり、と犬歯が突き抜けて唇から血が溢れる。
 急激に頭の中のもやが急速に払拭されていった。思考が鮮明になって、顔に血が昇って来る。
「…………」
 何も言えなくなってしまった。ずるずると身体を引きずって倉庫の壁に背を付ける。今俺はミラより紅い顔をしているんじゃないだろうか。そのぐらい頬が熱い。
 沈黙を破ったのはくすくすと笑う声。ミラが、口元に手を当てて小さく笑っていた。彼女も俺の横の壁に背中を付けて天井を見上げる。
「……ごめんなさい。
 ……巻き込みます、あなたを」
 そして、ミラが呟く。
 俺は視線を正面に向けたままで、
「……気に、すんな」
 一言だけ返した。

第六幕「果て」

2014,08/20 ??:??

 ──石造りの部屋にいる。
 広く、古く、しかし埃一つないよう念入りに清掃された其処は、壁に据え付けられた鉄の燭台に三本ずつ立てられた蝋燭で薄暗く照らし出されていた。その部屋には一つの窓もなく、故に照明は蝋燭の焼々と小さな音を立てて焼け焦げる光のみ。その蝋燭が載せられた照明台、そして壁、床は深く黒い光沢のない石で出来ている。そして、床面には表面に撒き散らしたように点々と埋め込まれた黒曜石の欠片がざりざりとした表面、鋭角な凹凸を与えていた。数千、数万に及ぶ黒曜石の群れは光を微細に、しかし滅茶苦茶に乱反射させて部屋中に光を撒き散らしている。
 冷え冷えとした黒い部屋には重厚な黒檀の会議卓、その左右に四脚ずつ、計八脚のハイバック・チェアが並んでいた。そして卓の上座、対面に椅子のない“主”の位置には、赤い天鵞絨張りのひときわ豪華な椅子が一脚、設置されている。
 その椅子に着く者こそ、即ちこの部屋の、否、この“城”……もしくは“要塞”の主であり、今その椅子に深々と腰掛けて肘掛けの上面に設えられた天鵞絨のクッションに指を這わせているドレス姿の若い女性こそが、その当人であった。
 部屋には彼女一人。他には誰もいない。いる必要がない。この会議室が使われたことなど一度もないし、それ以前に会議をする必要がない。この“城”の中で決議されるべきことは、すべて“女王”によって決定されてきた。女王がいれば全ては動いていく。
 空白の八席は、最初の“女王”の誠意だった。しかし民衆はその誠意を求めなかった。だから席は空白のまま。一度も埋まったことはない。故に、この部屋は女王によって決定が為されるための、いわば儀式的な空間である。
 室内に満ちた冷え切った空気は、薄着ならば思わず肩を抱く程度の温度に部屋を保っている。空気は自然に循環せず、停滞。まるでこの部屋は氷室のようにも思える。そんな中で女性はまっすぐに中空を見据えている──いや、正確には睨み付けていた。それが彼女の思考する際の癖なのだ。眉根を寄せ、片手で天鵞絨のクッションに指を這わせ、片手で己の薄い顎をつまんで、じっと中空を睨む。脳の中では様々な思いが交錯している。
 過去の反芻、現在の状況、未来の展望。彼女は三つの選択肢を思い浮かべた。今、思考すべきことはこの三つ。
 現在は思考の対象になるが、変えられない。既に今、進行している。未来は変えられるが、今となっては思考の対象に出来ない──既に決めてしまったことだ。状況が変わろうが後戻りは出来ない。彼女は一人ではないのだから。
 故に彼女は過去を反芻する。今進行しているこの現在と、進まざるを得ない未来を心に強く抱く為に。


 ──今から五百年程前に書かれた一冊の本。
 その本をきっかけに始まった「魔女狩り」によって、多くの人間が死んだ。殺された。葬られた。
 今となれば、それが歴史という大河の流れ着く先であったことは容易に見て取れる。しかし、巻き込まれている最中には流れの全容を望めるはずもない。
 だから『私たち』は自分たちに降りかかった不幸を“神様”のせいだと思った。──それはあながち間違っていなかったのだが。
 異端弾圧の流れに乗って、魔女狩りは始まった。異端という名分は実に便利なもので、疑惑は容易に確信へとすり替えられていく。嘘も、欺瞞も、異端の一言で容易に真実となった。
 たった一世紀で数百万人が死んだという。誰もその全てを知らない。知り得ない。知るはずもない。
 『私たち』の世界──ヨーロッパは地獄になった。

 最初は一人の修道女だった。
 次は年老いた貴族だった。
 その次は若い旅の商人で、その次は盲目の娘だったという。
 異端の烙印を押され、無意味な拷問を受けながら、辛うじて理不尽な死から逃げ延びた人々が「森」に逃げ込んだ。
 「森」──即ち異界。彼女たちはそこに住む“本当の魔女”に助けを求めたのだ。藁にも縋る想いで。
 “本当の魔女”──それはただの噂でしかなかった。丁度魔女狩りが始まった頃に流れ始めた無責任な流説がそれだ。

黒い森(シュヴァルツバルト)には“本当の魔女”が住んでいる。
 悪魔との契約により獣を支配するこの魔女は、森に迷い込んだ人間をことごとく捕らえ、悪魔の力で獣にして支配する。
 “本当の魔女”は地上のすべての森に眷属を持っており、森に迷い込んだものを監視している。
 森の奥底まで生きて辿り着けば眼前に現れて一つだけ願いを叶えるが、そこまでで倒れれば眷属に喰らわれるだろう」

 この噂の源は何故かわからない。わかっているのはシュヴァルツバルト当地の人間がこの噂を聞いたのは他の土地の人間よりも後だったと言うことぐらいだ。恐らく「黒い森」という言葉のイメージから造られたでっち上げだったのだろう。
 だが、これは根も葉もないものというわけではない。昔から魔女は森の奥に住むものだったのだ。何時の頃からか、畏敬がただの恐怖へと変化しただけで。
 噂は農民の間を伝ってゆっくりとヨーロッパ中に広まり、やがて商人、そして貴族たちへと伝播していった。

 そして、森に逃げ込んだ人々はそこで魔女を見た。
 傍らに狼を従え、長く拗くれた木の杖を携え、木の枝を編み込んだ複雑な髪型をした、長身の女。
 魔女という言葉から想起される老婆でこそなかったものの、そこにいたのは“本当の魔女”だったのだ。
 彼女は「森の娼婦(ディルネ・デ・ヴァルテ)」と名乗り、人々を保護した。森の中に小さな集落を造らせ、慎ましくも自由な生活をさせた。彼女は人々を管理をすることはなく、ただ森を傷つけることだけはさせなかったという。
 やがて、保護される人々はどんどん増えていった。異端審問の激化により逃げ出す人間が増えたのがその要因だった。状況は悪化していき、多くの人間が森を訪れた。そこは既に一つの社会を作り上げていた。
 やがて人々の意志は一つの流れを造り、そして彼らは動き出していく。この残酷な世界から逃げ出して、新しい世界へと旅立とう、と。彼らはそれだけを望んだ。
 しかし、百年の時を経ても全く変わることのなかった「森の娼婦」は、その態度を変えることもなかった。彼女は人々には場所を提供したが、それ以外には何もしなかった。
 だが、森へ逃げ込んだ人々の中には、別の“本当の魔女”が数人いた。フランスからやってきたある女は、魔術を学問的に身につけた「魔術師」であり、名をセンテンティアと名乗っていた。
 彼女を中心として十数人の知識者が集まり、様々な議論を繰り広げた。
 新大陸は発見されてから百年以上が経っており、既にそこには異端審問の手が伸びている。彼らにとっての新天地とは成り得なかった。
 一部の商人たちからは東洋への脱出という案が出たが、徒歩による移送以外を望めない環境では過酷すぎる状況だった。
 此処にいたって状況は膠着する。何にせよ、このヨーロッパという監獄を脱出するには長い時間が掛かる。新天地に着けば良いものの、それまでに異端審問の手に掛かることは想像に難くない。
 ならば、何処に逃げればいいのか。
 紛糾する議論の中、センテンティアから一つの提言が為された。

「空へ」

 平面を移動するならば周囲の壁は厚い。既に森の中には質素とはいえ数万人規模の集落が形成されており、教会当局にも目が付けられている。恐らく、森から大人数が移動しただけでも、すぐに聖堂騎士が派遣されて皆殺しにされるだろう。ならば立体的に移動するしかない。
 再び議論は紛糾した──その時点で魔術以外に空を飛ぶ方法がなかったのであるから当然ではある──が、既にそれ以外の道は閉ざされていることは誰の目にも明らかだった。

 その日からセンテンティアを中心とした魔術師達は研究を始めた。空という空間の性質、そしてどうやって空を飛ぶか。
 単純に空を飛ぶだけでは行けない。低空を飛んでいては視認されてしまうし、何時か追いつかれてしまうかもしれない。
 より高く、より長く。やがて研究は「空に住む」ことへと変化していく。
 地上に生きるよりも、自由な空へ住まう。「楽園」は空にあるべきだ。と、誰かが言った。
 その発言は脱出を望む人々に受け入れられ、その昂揚した空気は群衆を飲み込んで、空への脱出は圧倒的な支持を受ける。
 地上に生きることが我々の不幸の始まりだったのだ、我々を地上に縛り付けた神が我々を不幸にしているのだ。
 何時しか誰もがそう信じていた。

 やがてセンテンティアは難題の壁に突き当たる。ただ「空に住む」という意志決定だけでは駄目だ、というある意味では当然の、しかしその状況においては致命的な壁に。
 大地には物をそこに縛り付ける力がある。空を飛ぶには常にそれに反し続けるか──力が届かないほど遠い空を飛ばなければならない。

 遠い空をセンテンティアは『夜の果て』と呼んだ。
 『夜の果て』には大地に縛り付ける力は届かないが、そもそも大地がない。
 迷った彼女に人々は答えた。
「我々を見捨てた神がこね上げた泥の大地などいらない」
 そこは太陽の光がない。常に夜の世界である。
 迷った彼女に人々は答えた。
「我々を見捨てた神が『在れ』と言った光などいらない」
 『夜の果て』には何もない。暗い空間は何もないから暗いのだ。
 迷った彼女に人々は答えた。
「どうせ私たちにはもう何もない」

 彼女の迷いは全て否定された。人々は、既にこの世界を見限っていたのだ。
 色々なものに裏切られてきた己を無力と信じる人々は、最後の最後に信じるべき「宗教」という支えに裏切られた時、逃避だけを望むしか考えつかなかった。

 ならば、とセンテンティアは考える。
 大地を造らなければならない(・・・・・・・・・・・・・)
 数十万の人間が住むことが出来る、大地の代わりになる空間を作ることが出来れば、そこが新天地となるだろう。
 勿論、他にも問題は数多あった。研究の結果、『夜の果て』には、空気も水も食物もないことが判っている。それらをどのように確保するか。そもそも『夜の果て』までどのようにして移動するか。
 だが、それらの問題は一人の少女の“力”によって一時に解決されることになる。少女の名前はクレオ。シュヴァルツバルトで生まれた第三世代目の初めての子供であり、錬金術師たちによって手を加えられた“祝福された児(ゲセグネィト・キンダー)”の初めての成功例だった。

 “祝福”とは、人間の体内に眠る「閉ざされた図式」──発達していない人体の設計図、即ち遺伝子を薬剤や魔術によって強制的に顕現させる技術である。
 この技術を研究する事は当時の錬金術師の間で長らく禁忌(タブー)とされてきた。動物実験で成功しても、人間とは遺伝子の構造が違うが故に同じ方式は役に立たない。人体実験によってのみ、この技術の発達はなし得るものだった。それは当時の社会倫理からしても禁忌である。
 しかし、行き詰まった状況がその倫理を歪めた。
 他に方法がないならば、どうせ潰えしまう人生ならば、いくらかの犠牲、弱者の犠牲は仕方がないことだ……。そんな風潮が広まり、やがて数多の人体実験が繰り返され──そして“祝福”という技術が完成した。
 “祝福”は遺伝子を変容させるが故に子供、それも赤ん坊に施すのが最良とされた。ある程度成長してからの施行は少なからず被験者の身体を破壊し、少なくとも脳への障害、場合によっては四肢や内臓の崩壊を引き起こす。
 しかし、赤ん坊や幼児への薬剤投与や魔術施行もまた、知性の退行や精神の不安定、判断力の低下、意識障害などを引き起こすことが研究によって判明する。
 多くの失敗を踏まえて最良の方法として発見されたのが、妊娠した母体への薬物投与・魔術施行により、最初から「開いた図式」を持つ胎児を創り出すという方法である。
 この方法によって生まれた子供は著しく精神的バランスを欠いたが、それまでの実験例から比べても恐ろしく強力な能力を顕現した。そして、それらの“祝福された児”の中でも最も強力な能力を顕現したのが、母胎を真っ二つに切り裂いて誕生した最強の切断能力者、“母親殺し”クレオであった。

 最初は誰もがクレオを始末しようとした。彼女の能力を発言させた魔術師でさえ、その統制のない強力な切断力に怯え、彼女を殺してしまおうと目論んだ。
 だが、それらの目論みは全て失敗に終わる。ミルクに混入された毒を吐き捨て、飢えさせようとすれば家を壊して暴れ、谷に落としても遠くに置き去りにしてもいつの間にか戻っていた。強硬手段に出ようとした術師は両腕と顔面を切断されて死んだ。誰も彼女が生きることを止められなかった。
 彼女が生まれて二年経ち、漸く周囲は理解した。彼女は己の生存を脅かされない限り能力を使うことは滅多にない。出産時に能力が発現したのは、何らかの原因で己の出生までに死を感じたのだろうと推測された。記録を調べ直してみれば、確かに彼女は逆子──生命の危険を感じる状況だったのだ。
 こうして彼女の生存は暗黙のうちに「仕方がないこと」として受け入れられた。生かしておけば強力な「武器」にもなるだろう、という人もいた。打算と恐怖が彼女を生かした。
 そうしてさらに二年。彼女が四歳になった時、養育係を任せられた男は一つの疑問を抱いた。
「何故この子はどうやっても戻ってこられたんだろう」
 彼女の他に数人造られた“祝福された児”──すべてそれまでの三年以内に死んでいた──と他の“祝福”の被験者を使った研究により、被験者には強力な毒物耐性と、害意を鋭敏に知覚する能力があることが判っていた為、彼女を毒物で殺すのが不可能だったのは当然と判った。
 しかし、何故彼女は三マイル(注:一マイルは約一.六キロメートル)も離れた森の外れや、百フィートもある崖から突き落とされても帰ってくることが出来たのか──物心つく歳でもない子供が、傷一つないままで。
 その疑問はある日唐突に解答を与えられることになる。

 ある日、蝶を捕まえようと走るクレオを監視していた男は、ふと眼を離した隙に彼女が崖の外れの崩れそうな岩の上に立っているのを見つける。男が止める間もなくクレオは空に足を踏み出し──落下した。
 しかし、崖に駆け寄り、せめてその小さな身体の落下を見届けようとした男の視界に飛び込んできたのは信じ難い光景だった。
 崖から落ちたクレオは、しかし中空でその姿を消し──男のすぐ側、己が踏み外した岩の上空に現れたのだ。

 男によって伝えられたその報告を元にクレオの能力の再調査が行われた。それまでは単純な「物体切断」の能力だと考えられていたそれは、しかし、ただの切断ではなかった。
 要約すれば、彼女の能力は「空間の切断と縫合」である。不可視の「(ライン)」を自由に操り、己の任意で周囲の空間を切断する。空間を切断すれば当然その上にあった存在も巻き込まれ切断される。今まで彼らが能力だと思っていたものはその結果でしかなかった。
 また、己が切り開いた空間は自由に縫い合わせることが出来、切り開いた空間を他の空間と繋げてしまうことすら可能であった。これによって彼女は瞬間的な移動を行っていたのだ。

 クレオの能力が判明した事によって、状況は一変した。空を飛行する手段を模索する必要がなくなったのだ。
 『夜の果て』に繋がる空間を切り開き、魔術師達は『夜の果て』の研究を始めた。六年の年日をかけて綿密な計画が練られ、それに伴う様々な問題が発見されていった。
 即ち酸素、水、食料、衣服、資材調達、生活空間、政治システム、労働形態……。
 今日の地球における宇宙開発の数倍に比する早さでそれらが解決されたのは、『私たち』がそれしか出来なかったからに違いない。『私たち』はただ世界から、ヨーロッパから逃げたかった。そして、それ以外に出来ることはなかった。

 だが、同時に、他の手段も模索されていた。計画が模索された時点から数十年。一六〇〇年代初頭始まった戦争は計画を模索する間も続き、この地域の多くの村や街を滅ぼして商業が崩壊し、多くの人間がただ彷徨い歩くものとなっていったのだ。戦争は未だ続き、既に森の住人は数十万人に達している。
 『夜の果て』ではなく、他のどこか地上に逃げるという方策はないのか。ウィーンから逃げてきた男は西の果てに新大陸が発見されたという。また、シルクロードの果て、明の先には黄金のある島国があるという。そこならばまだ逃げ場はあるのではないか。
 しかし、その方法はクレオの能力に適さなかった。彼女の能力は空間認識によってその接続先を決める。移動先が認識(イメージ)できない場所であれば、その行き先に空間を繋ぐことは出来ないのだ。
 彼女の能力を当てに出来ないのであれば、移動に関してはどうしようもない。空間をねじ曲げたまま維持し、沢山の人数を一度に移送出来るからこそこの能力には価値がある。
 『夜の果て』であればクレオは容易にイメージすることが出来た。ただ遠く高く、雲よりも遠く、身体を押さえ付ける力すら届かないほど遠く何もない『夜の果て』であれば、彼女は幾度もイメージしていたのだ。
 その何もない闇こそが、彼女の唯一持ち合わせる母胎のイメージであったから。

 結局の処、逃げ場は一つしかなかった。必然によって全てが決まる。
 今ではもう失われた技術により『夜の果て』に巨大な城塞が建造された。其処には数十万どころか、数百万の人が生きていくに足るスペースが設けられ、生活必需品を自給自足していくシステムが構築された。
 その完成には十年の月日が費やされ、それまでに全ての懸念は解決された。

 そうして。十年の後に計画は実行され、『私たち』は空間を渡り、地球(ホーム)から『夜の果て』へと逃亡した。


2014,08/20 15:19

「…………」
 長い物語りを終えて、ミラは一つ大きく息を吐いた。
 俺は(・・)まだ何も言えずにいた。随分とまぁ大きな話になったもんだ、とか。そんな当たり前の──しかし的外れな事を考えている。
「信じて……貰えませんか?」
 小さな声でミラが言う。
「当たり前ですよね……あなたが知っている歴史にこんなことは少しだって刻まれていない。
 『夜の果て』に…… 宇宙に、人がいるなんて。歴史から放逐された人間がいるなんて……
 信じるのは、難しいですよね」
 俺が言葉を選んでいる間に彼女は堰を切ったように言葉を溢れさせ、そして々と俯いていった。
「……でも、本当なんです。
 私たちが言えるのはこれが真実だということ。
 その証明は……」
 勢い良く言って己を示そうとした彼女の手を押さえる。虚を突かれたように言葉を止めた彼女に、俺は真っ直ぐ視線を合わせた。
「……俺は、まともな教育を受けてなくてね」
 唐突な言葉に、彼女は眼を丸くする。
「……ちょっとした事件(・・・・・・・・)があって、家を追い出されたんだ。それからはずっと生きるために生きてるみたいなものでさ。
 ……あー、だから、その」
 ぐしゃぐしゃと頭を掻き回す。ちょっとした事件だったかどうかすら、本当は思い出せない。それ以上にもっと簡潔な言い様があったはずだ。
 ……彼女といるとなんでこうも調子が狂うんだろうか。言い訳がましくなってしまう。
「……俺は歴史のことなんか大して知っちゃあいないんだ。それに、自分の知ってる歴史が本当に正しいなんて思ってない。君らの歴史を丸飲みは出来ないけど、そういうことがあったっていうのを否定する要因にはならない」
 言葉を切って、少し大きく息を吸った。

「……だから、君が言うなら信じる」

 そう言って、照れ隠しに笑ってみせた。
 数秒の間。
 ミラの顔がくっと歪んで、彼女は急に俯いた。
「な、なんか悪いこと言ったか俺……」
 慌てて身体を起こす。足りない血のせいか脳がぐらりと揺れるような感覚があるが、意識は踏み止まった。
 時たましゃくり上げる以外は声もなく、ミラは泣いていた。俺にはその背を残っている右手でさするぐらいしか出来ることもない。
 そのまま数分。ミラは顔を上げ、俺を見る。頬に赤い筋、眼も兎みたいに赤くなっている。
「……ごめんなさい、大丈夫です」
 そう言って彼女は、
「……信じて貰えないと思っていたんです……。
 地球から運ばれてきた歴史の本を何度も読みました。どの本にも魔女狩りの事なんてちょっとしか書いてなくて……
 だから、もう忘れられた、どうでもいいことなんじゃないかと思っていたんです。
 どうでもいいと思われてしまったなら、私たちよりも、私たちの祖先が、あまりに哀しいって思って……」
 まるで花が咲くみたいに微笑んだ。
「だから、あなたが信じてくれて……とても、嬉しいです。
 判って貰えるんだって……思えて」
 またぽろりと涙を零す彼女を見て、俺は複雑な気持ちになった。
 それはきっと、俺が今の歴史に拘っていないから言えたことなのだ。歴史を……教育を正しく受けてきた人間なら、容易に信じはしないだろう。
 ……それが消えていった者達を忘れるのが歴史のあり方なのか? そうやって造られたことを教えていくのが「正しい教育」と言えるのだろうか?
 沸き上がる疑問と罪悪感を押し隠して、俺は話を逸らした。
「……処で、ミラ。
 まだ聞きたいことがあるんだけど、いいか?」
 ぎこちない転換だったが、ミラはその言葉に応じて表情を切り替える。
「私に答えられることなら」
 幾つかの疑問が頭の中にある。まずは、
「…ミラは最初に空から降りてきたり、俺の傷を治したりしたよな。あれはどうやったんだ?」
 その言葉にミラは一度虚空を見上げた。次の言葉を何と使うべきか、どう言えば信じがたい事を納得させられるか。
「……どうしたんだ?」
 一瞬その白い顔を複雑な悩みの表情が()ぎる。
「……岩魚さん」
 ミラは俺の疑問詞には応えず、ただ俺を見て、名前を呼んだ。青い瞳が真っ直ぐに俺を映している。
「……なんだ?」
 答える俺に、彼女は回答ではなく更に疑問を返す。
「……『魔法』の存在を、信じられますか」
 少し不安げに眉根に皺が寄っている。
「そうだな……」
 少し考えたが、答えはすぐに出た。
「信じられるよ、俺は」
 あっても不思議ではないと思う。自分の“壁”を造る力──あの剣鬼曰く“結界”の能力──も、ミラが飛ばした青い光弾も、そして光弾を切り裂き俺の腕を切り落とした剣鬼の黒い手刀も。
 魔法とでも言わなければ説明しようがない。
 ミラはふぅ、と溜息をついて、少しだけ微笑んだ。
「……そうですね。あなたも“使い手”ですものね。……“外世光(アゥセア・リヒト)”は、視えますか?」
 俺は頭を振る。
「いや、俺はそういう知識は全然ない。ただ信じられるってだけだ」
 そうですか、とミラは頷いて、
「視えないのに力は使える、ということは、よほど特化した血統なのか、それとも絶えて久しい力なのか……
 恐らく、両方だと思うのですけど」
 彼女の言葉に俺は、
「俺の両親だった奴らは魔法なんて使ったことはない。……俺を恐れていたぐらいだ」
 ──だからあの時(・・・)も黙って見ているしかなかった。
 そんな風に思うと、頭の何処かがちりちりと焼けるような感じがした。
 ──そもそも、あの時(・・・)とは、何時のことだろう──。
 悩む俺を、ミラは悲しそうな目で見ていた。
「……魔が否定される時代ですものね……仕方がない、とは言いたくないけれど……」
 と言って、彼女は俺に手を伸ばす。
「今、指先に“力”を集中しています」
 言われて俺はその指先を注視する。すると、薄ぼんやりした青い光がまとわりついているように視えた。
「……青い、光?」
 ミラは笑ってその手を俺の右腕に当てる。
「注意すれば視えるみたいですね。力を持っているんですから大丈夫だとは思ったんですけど」
 そう言って、彼女は何かを低い声で唱え始めた。青い光はその声と一緒にゆっくりと腕に染み込んで来る。
 数十秒そのままにしていると、骨折の痛みが多少薄れていた。
「……これが私の使える“魔術”、簡単に言えば治癒の力です」
「“魔術”?」
 鸚鵡(おうむ)返しに尋ねる俺に、ミラは少し笑って応える。
「先ほどは“魔法”と言いましたが、私の使える能力は“魔法”というレベルに達していません。

 “魔法”とは“法則”です。

 石を投げれば慣性に従って飛び、重力に従って落ちる。水は百度で沸騰し、水蒸気になって冷えればまた水に戻る。これは一定条件下──地球上で、重力異常がなく、一気圧の土地──で適応される“法則”です。
 “魔法”というのはそれと同レベル。一定の条件下において成立し、全ての存在を均等に支配する“法則”。
 それ(・・)を自由に操ることは、万能たる為に自らの能力を“法則”から“技術”へと変えた魔術師には不可能です」
 つまり、“魔法”とは強力な代わりに応用の利かない限定性の高い力、ということか。
「……対して“魔術”は“技術”です。
 科学と同様の方向性を持ち、芸術のように繊細で、武術のように鍛え上げることが出来る超絶技巧(・・・・)
 自らの内と外にある力で“外世界(アゥセア・ヴェルト)”に働きかけ、意志と経験と直感と研鑽で望みの結果を引き出す“技術”。“魔法”ほど強大な支配力は持ちませんが、その代わりに千変万化の可能性を持っています。
 先ほど出血を止めたのも、今腕の痛みを和らげたのも、私の意志があなたの肉体に外世界から作用した結果です」
 荒唐無稽にも聞こえる話だが、事実出血は止まったし、腕の痛みも和らいでいる。
 そして、それ以上に俺は俺自身の持つ“壁”を造る力に説明がつくことが何よりもその話を信じる気にさせた。
 “壁”を造るとき、俺はいつも壁の場所・形を想像しながら額に力を集中する。その集中は、正に彼女の説明にあったように、力が世界の境界線を突き抜けていくようなイメージを伴っていた。
「……なるほどな。
 じゃあ俺も修行すれば他の魔術が使えるようになるのか?」
 尋ねた俺に、ミラは小さく首を振る。
「人間の使える魔術には“方向性”があります。それは遺伝的・形質的に決定され、変わることは……滅多にありません。
 私の血統が持つ方向性は“治癒”、岩魚さんの血統の方向性は恐らく“防衛”。勿論鍛え上げればそれ以外の領域にも多少の手は出せますが、それには数十年単位の長い修練が必要になりますし、消費も大きくなります」
 消費、という言葉で思い出す。
「そう言えば魔術を使った時には何かが消費されるのか?」
 この際聞けることは出来るだけ聞いてしまおう。
「魔術は他の方法で出来ることを意志力・精神力で代行する技術です。単純に言えば疲れます。
 消耗を抑える為に儀式や呪文、印、符などの『手間』を踏むことも出来ますが…… それも術の傾向によって決まります。詳しく説明するのは難しいのですが、時間をかけるほど強力になるのは間違いありません」
 その言葉に疑問が生じた。
「……俺の力も時間をかければ強力になるのか?」
 あまりこれ以上強力になるイメージが掴めない。強度が上がるということだろうか?
「……いえ、岩魚さんの力は魔術とは本質が少し違うんです」
 疑問詞が頭の中に溢れかえる。
「魔術じゃない? ……じゃあこれは、なんなんだ?」
 皆目分からない、という感覚が声からも滲み出していた。ミラは少し考えて、
「……魔術は技術、と言いましたよね。
 技術というのは先天的素養にも関係しますが、後天的に身につけるものです。だから魔術師は家系や血統によってその能力を分類されます」
 指先が器用なら職人になることは出来るが、指先が器用なら職人であるという直結は成立しないということか。
「それに対して岩魚さんの力は『能力(アビリティ)』と呼ばれるものです。先天的な素養のみで発現する個体発現能力。血統にも左右されますが、基本的に個人の精神的形質によって形成されます。
 これは発現時から完成した能力で、魔術のように修行して成長することはありませんが、並の魔術以上の効力を持ちます」
 と、いうことは。
「……これは“防衛”の血統と、俺の精神的形質が相まって出来た『能力』ってことか。けどなんでこんな力が俺にあるんだろうな……」
 ミラは一度頷いて、しかし小首を傾げた。
「……『能力』が発現するには特殊な教育を受けるか、他の『能力』の影響を受けるか……、大きな衝撃(ショック)を受けるか。必ず原因があるはずです。
 何か覚えていませんか?」
 言われて頭の中を探ってみる。
「……家を追い出されたことぐらいしか思いつかないな」
 あれは流石にショックだった。あの日から突然母親が人が変わったようになり、親父が俺を……。

 ……その『ある日』の事が思い出せない。

「あれ……?」
 思い出そうとするが、其処に何か『壁』が立ちふさがったかのように強固な障害がある。
 家族がいて、俺は普通に日々を過ごしていた。そんなイメージがある。間違いなくある。けれどはっきりしない。茫洋とした中に浮かび上がってくるのは、

 ──黒く塗りつぶされた誰かの顔。

 急に、酷い頭痛が襲ってきた。
「く、ぁ……」
 呻いて頭を抱える。ミラが慌てて額に手を当て、治癒の力を送り込んで来た。しかし頭痛は和らぐこともなく間断なく脳の中を駆け巡る──そうだ、この頭痛は、肉でも神経でもなく、脳を駆け巡っている。

「──思い出せるわけがないよ」
 唐突に。
 聞き覚えのある声が、ミラの背後、倉庫の外れから聞こえた。
「……進藤、か?」
 引かない頭痛に喘ぎながら、ミラを背中で庇って前に出る。だがその声はほぼ間違いなく、三年以上前から聞き続けている進藤のものだった──俺の記憶の中にはっきりとある唯一の男の声。
 けれどそれが何か違うものであるという感触が、じわりと染み込んできて、止まらない。
 かつ、と音を立てて、革靴の爪先がコンテナの影から歩み出る。革靴に薄手のトレンチコート、ぴっちりと決まった七三分け。格好悪い真っ黒な喪服のようなスーツだけがいつもと違うが、その姿は確かに進藤のものだった。
 だが、何かが違う(・・・・・)
「……お前、誰だ」
 俺は誰何の声を上げて、立ち上がる。姿勢は自然と何時も通りの構えになっていた。
「おいおい、君がさっき言ったばっかりだし、この顔を見て判らないかい? 悲しいなぁ」
 軽々しく笑って一歩近付いてくる相手に、俺は握った右の拳を向ける。まだぎしぎしと軋むような感覚が残っているが、一発ぐらいならいけるだろう。
「酷いな。そんなに薄情な人間だったっけ? 君」
 言いながら、進藤はまた一歩近付いてくる。しかし、今の俺の眼にはその身体にまとわりつく黒い炎(・・・)が視えていた。
 身体の表面をなぞる俺の視線に気付き、進藤は笑う。
「なんだ、視えるようになったのか。
 なるほど……、それじゃあ擬態しててもしょうがないな」
 そうして何故か真っ白い手袋に包まれた右手をポケットから出して、自分の顔面をぐしゃり(・・・・)と掴んだ。
 ミラがひ、とか細い悲鳴の出来損ないを喉から漏らす。俺もその光景を唖然と見ていることしかできない。
 俺達の目の前で、進藤は己の顔面をべりべり(・・・・)と引き剥がして、コンクリートの床にべしゃりと投げ捨てた。
 其処には既に進藤はいない。
 其処に立っているのは、先ほどまでの進藤の衣服に身を包んだ()。セミロングの黒髪にシャギーを入れていて、髪も瞳も恐ろしいぐらいに黒い。
「悪、魔……」
 ミラが怯えた声で呟いた。
 進藤は……いや、元(・)進藤は笑う。
 くっくっく、と喉を鳴らすみたいに、嫌らしく、一頻り笑って唐突に俺を見た。
「やあ、久しぶり(・・・・)だね」
 笑いを含んだ声で言う。俺は応えない。じり、と足先を動かして、女に向ける。
「物騒だな……まあ、仕方がないか。
 殴る前にせめて自己紹介をさせてくれ賜えよ」
 にたりと、まるで子供の頃みたアニメのチェシャ猫みたいな笑顔を浮かべた女に、
「……勝手にしろよ」
 俺は呻いた。
 女の全身から放たれる気は殺意でもなく、闘志でもなく、害意ですらない。ただ圧倒的な存在感(・・・)が周囲の空気すら薄める程に空間を圧迫している。
 ──こんなバケモノ相手に先手なんか取れるわけがない。
「それでは謹んで」
 にたにた笑いながら、
「少年には再会、少女には初対面となるな。
 まぁ一つの挨拶で堪忍してくれ賜えよ」
 良く判らないことを言って、女は深々と芝居がかった礼をする。
 くくくくくくッ。
 再び響く喉を鳴らす笑いが存在感とともに周囲を圧していく。

「私は、そう、悪魔『メフィストフェレス』。

 お久しぶりだね、鳥海岩魚君」

 そして女は深々と一礼する。見慣れたはずのトレンチコートが蝙蝠の翼のようにばさりと鳴った。

6th track "Start line" out...

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