2014,08/20 14:26
ごうっ
まるで吹き付ける突風のように太刀が一閃する。
俺はミラを背中で突き飛ばし、逃げろ、と喚きながら身体を右前に向けて倒した。俺の頭があった位置をまっすぐに貫く剣閃は、即ち突きの軌道を突き進んでいく。
つんのめるように前傾姿勢になった俺と、身体ごと直進して来た奴の胴が激突するその直前、奴は大きく飛び退いた。けけけ、と笑う声が聞こえる。
俺はバランスの崩れた身体を立て直した。
飛び退った奴──探湯荒野王と名乗った男は、その右手で握った太刀を軽々と、まるでナイフか小刀のようにぐるりと振り回し、そして素早く鞘に納める。ぢぎっ、と柄と鯉口が当たる音。
恐らく居合の技術。しかし、その剣技がただの居合ではないのは素人目にも明白だ。
探湯の持つ刀は所謂「日本刀」と呼ばれる処の打刀ではない。太刀だ。
太刀とは刀身が二尺(約六十六センチ)以上、三尺(約百センチ)未満のものを指し、打ち刀も同様。並の太刀であれば刀身が大きく反っている事、そして帯刀法が異なることを除けば打刀との違いは少ない。
しかし男が持つ太刀の威容は、並の打刀とは大きくかけ離れたものだった。刀身は恐らく三尺七寸(約百二十センチ)ほどもあるだろう。当然それに伴って重量も増える。並の刀の重量は一キロを越えないが、この太刀は長く、そして肉厚であるが故に、少なくとも二キロ以上の重さがあるだろう。このサイズの太刀は区別され、大太刀、若しくは野太刀と呼ばれる。
その反りの大きい長大な野太刀を、探湯は片手で抜き放ち、縦横に振り回し、納刀すらしてみせた。
日本人離れして長い手足と、長年の鍛錬。
日常的に繰り返された抜刀と納刀。
そして日常的に繰り返された殺傷。
素養と技術が融合して完成した殺傷技。
この男は剣士ではない。
「──行くぜ?」
軽い声と共に、
ざん ざん ざん
と、空気を裂いて刀が走る。
左から右、抜き打ちの一刀を一歩引いてかわし、手首を返して斜めに走る二刀をスウェーバック、そして左上から袈裟懸けに落ちる三刀はそのまま後ろに倒れて避ける。
ぢぎっ。再び納刀の音。
そのまま後ろに転がって立ち上がる。一瞬左右に視線を送った。ミラはまだ数メートルの間にいる。男の殺気にあてられたか、囚われたかのように逃げられない。
──それは俺も同じか。
叫びだしたいぐらいの恐怖を感じていても、
探湯は上体を低く、まるで伏せるかのように低く構えている。胴はまるで螺子山のように捻れ、片肌脱ぎになった右の背中が俺の方を向いていた。
その猛禽の目が上目遣いに俺を見つめ、まるで刀のようにぎらりと光る。その唇が小さく開き、舌がぬらりと揺らめいた。
「……B+にはちと足りねえなぁ」
呟いた言葉、その意味はわからない。返答代わりに拳を握り、身体を左前にして爪先を向けた。
「さっさと
──ちから?
疑念が脳裏を駆ける前に、探湯がその低い姿勢から突風の如く跳ね上がった。ぎりぎりまで捻られた上体が巻き戻り、長い腕が孤を描くように引き延ばされて、鋼が空間を疾走する。低空から切り上げるように上昇する剣閃。その軌道は左下から右上の逆袈裟。
脳裏に閃く“予想図”。この男の剣は三度連なる。
一歩退いても間に合わない。後ろに飛べば二撃目が来る。また倒れ込んで転がれば一度は避けられるだろうが、最後は確実に止めを刺されるだろう。
一歩引きながら、額に力を込めて、“壁”を創る。柱のような円柱のイメージ。胴体から頭部の左側、幾らか傾斜させて下からの軌道を迎え撃つ。
ぎゃん!
空間が盛大な軋みの音を放った。壁が無色透明の欠片を散らしながらも野太刀の進撃を食い止めるイメージ。太刀がぎゃり、と鋼の鳴る音を立てる。その向こう側から男の目が俺を見上げてにたりと歪んだ。
「……成る程な。
てめえ、“結界師”か」
呟いて、男は再び大地を蹴った。後方に飛び、太刀を鞘に納める。俺は何も応えない。否、応えられない。この“壁”を創る力に名前があることすら初めて知ったのだから。結界。確か、仏教用語だっただろうか?
「抹香臭い仏門の爺じゃあるめえし、なんでてめえみてえなガキが結界なんぞ張れるんだかな……」
探湯は構えない。自然体で立ったまま、右手を顎にあてて視線を中空に向けて考え事をしている。だというのにその殺意は俺の首筋を冷たくしたまま、ぴたりと固定されているように離れない。
「……まあ、いい。確かにB+相応の能力ではあるしな」
言って、その視線を俺に向ける。そのきろりと睨み付けた目が急に笑みに歪んだ。頬が歪んでいる。
「二度、俺が先手を取った。
次はお前が先手だ。二手、好きに動け」
そう言って不貞不貞しく腕組をし、唇の端を上げて、けけけ、と笑った。
俺は集中を解き、“柱”──探湯曰く“結界”を消した。探湯の考えはわからないが、ともかくもこれでミラを逃がすことが出来る。探湯から目を逸らし、ミラを見る。殺気に飲まれたかのように動けないでいた彼女は、俺の視線に気付いてようやく一歩後退った。
「そのまま、逃げてくれ」
普通の声で言ったつもりだったが、喉が閉じているのか出た声はやけに小さく。しかし、周囲が沈黙に包まれた状況では、やけに大きく響いた。視線を探湯に戻し、俺は動かない。二手目を行わなければ相手が動かないならば、彼女が逃げるまでは、二手目を動くわけにはいかない。
数秒の間。
風がひょう、と吹き抜けて、背後でたたた、と軽い足音が聞こえた。
「……憎いねえ、この色男」
にやけた顔で言う探湯に向かって、俺は構え直した。
左足を前に、右足を後に。右の拳は腰の横、左の拳は胸の前方。思考と肉体が同調し、世界がほんの少し遅くなる。
探湯は目を細め、笑いを顰めて俺を睨み付けた。姿勢はほぼ自然体、腕も組んだままだが、先ほどまでミラに向けていた分を含め、倍近い押し潰されそうな殺意が俺に集中する。叫びたくなる喉を抑え、呼吸を整えた。
吐、吐、長吸。吐、吐、長吸。
殺気に張り詰めた筋肉が緩み、握り過ぎた拳の汗が冷たく感じる。
数拍の鼓動。身体の中で、どくん、どくんと鳴り響いているそれが俺を急き立てる。首筋に当てられた殺気の刃を払いのけろ、と五月蠅く喚く。身体を駆け巡るその声に追い立てられるように、俺は走り始めた。
間合いは五メートル。
だん、だん、だん、と三歩で詰める。許された一手、それで全てが決まる。二度目はない。
二メートル手前で左足が大地を蹴る。身体が少し浮いて、小さく放物線を描くように滑空。
近付いてくる白い着物姿、片肌脱いだ右半身。
その瞬間、何処からともなく青白い光が視界に飛び込んできた。
探湯は、く、と唇を噛み、それを左の手刀で切り捨てる。
組んでいた腕が解け、右半身が開かれた。
右足を空中で踏み出し、それに上半身が追従する。
ぎゅる、と身体全体で螺旋を描きながら、弓弦のように引き続けた右拳を射ち出す。
ばうッ
空気を弾いて拳が飛ぶ。弾丸のように直進し、探湯の右胸に一直線に吸い込まれ、
嫌な音がして、拳が叩き潰された。
手刀を放った左の肘、そして右の膝。上下から唐突に振るわれた暴虐は、疾風のような速さで空を裂き、俺の腕を挟み潰す。拳から探湯の胸まで二センチ。そこで拳の進行は止まった。
──右の尺骨が折れている。
「……二手、先に使わせてやったぜ」
拳を止めた探湯の表情は、しかし不平のある子供のように尖っていた。
「てめえにやった二手だったんだがな。
あのアマがつかっちまいやがった」
青い光。どんな力か、どんなものか、それはわからなかったが、あれはミラが放った援護だった。
つまり。その光が飛来した時点で
ぺ、と唾を吐き捨てて、左手で俺の折れた右腕を掴む。骨がむちゃくちゃに動いて腕を中から傷つけ、俺はむぐ、と呻いた。
「……ったく、つまんねえ、な!」
握り締めた右拳。探湯の長い腕の先遠心力を得て加速したそれが、俺の顎の下を捉える。がずん、と脳に響く音と共に世界が揺れた。世界が急速に
相手の身体が捉えられない。
見えるのは、その手。素早く動くその先端だけが、どろどろに溶けた世界の中でやけに目立つ。
探湯の左手は掴んだ右腕に強く食い込んで俺を昏倒させない。振り上げられた右拳が解け、手刀と成って前頭目掛けて打ち下ろされてくる。黒い奈落に落ちかけた意識の中で、咄嗟に左手を盾にした。
ずどッ
冗談のような切断音。
激突の瞬間、暗く重苦しい影のようなものが手刀を覆い、受けた左腕をとんでもない痛みが走り抜けていった。
一拍遅れで手刀が走った箇所から、ぶしゃっ、と紅いものが吹き出して、左手を真っ赤に染める。暗い底に沈みかけた脳髄が激痛で覚醒する。
「……ッく──」
喉が痙攣して息が漏れた。
どくん、どくん。心臓が脈打つたびに身体が左腕から真っ赤に染まっていく。紅い世界の中で、振り切られた手刀は引き戻され、くるりと回転して人差し指と中指の二本を立てた剣指(・・)となった。
そうだ、この男の剣は
折れた右腕は捉えられ、左腕は激痛で動かせない。脚を引いて蹴りを放つにはもう間がない。
抵抗できない。
探湯の唇の端がくい、と持ち上がってつり上がった。これは笑顔だ、と。理解すら遅れるほど、禍々しさが滲む喜悦の表現。そして指先がまっすぐに俺を指して、
びちゃ
水っぽい音がした。
紅い世界の左半分が、突然断線したかのようにぶつりと消えて真っ黒く染まる。無意識に喉が絶叫を放った。びりびりと鼓膜が震動している。何時の間にか右腕は解放されて、だらりと身体の横に垂れ下がっている。
絶叫の向こう側から、けけけ、と嫌らしい笑い声。探湯の笑顔はとても近くに在る。手を伸ばせば届くぐらいに近い。一歩左足を引き、お、という音を引き延ばし続けるような絶叫を上げながら、激痛を訴える左腕を振り上げて、その笑顔に向かって全身でぶつかるみたいに叩き付け、
そして、其処に何もない事に気付いた。
振り上げ、叩き付けたはずの左腕、探湯の目の前に振り下ろされたそれには肘から先が
背後で、どちゃっ、と音がした。
心臓の鼓動すら止まったみたいに静かな瞬間。視界に入るのは禍々しい笑顔と、肘から先のない俺の左腕。
ひゅう、と風が俺達の隙間を吹き抜けていき、足下の草がさやさやと鳴る。
呼吸の音ですら崩壊しそうな静寂。
それが壊れた瞬間に絶望する、そんな予感を抱きながら、肩越しに背後を振り返った。
風に揺れる草の中にごろりと横たわっているのは。
見間違いようもなく、俺の左腕だった
第五幕「須く喪失に始まる」
2014,08/17 02:35
──そこは惨劇の現場だった。
蛍光灯で白々しく照らされた路地は、しかしアスファルトの黒に浮かび上がるのではなく、どす黒い赤に汚されている。
その赤の中心に立つのは少女。長身──いや、巨躯と言うべきか。身の丈はおよそ百九十センチに及んでいる。にもかかわらず彼女の纏う雰囲気はあくまで“女”でなく“少女”。その引き締まった筋肉質な身体はボディビルなどによって作られた筋肉ではなく、武術の為に鍛えられたものだと判るだろう。
容貌はその体格のせいか若干少年じみた印象を与えるが、まるで彫刻のように整っていて、冷たい印象が更に強い。その中心で無表情に周囲を睥睨する緑碧の瞳はまるで鉱石のようだ。色からして、グリーンベリル。髪は濃厚で深みのあるダークゴールドで、セミロング程度の長さ。無造作に切られているせいで動きの強い髪型になっている。服装はブラックジーンズに黒い半袖・ハイネックのサマーセーター。黒いバスケットシューズで足下を固めていた。その真っ黒い出で立ちで目立つのは、肌の白さと腰の
少女を除いて路地に
胴に拳大の丸い穴が空いた男、喉頸を引き裂かれた男、眼窩から後頭部にかけて細い穴が空いた男、そして外見には傷一つなく、しかし確実に死んでいる女。皆一様に仰向けに倒れ、愕然としたような空虚な表情を宙に向けている。
小一時間前まで繁華街の片隅を縄張りにしていた小さな“チーム”は、悠々と領土を侵した巨躯の侵入者を路地裏に誘い込み……そしてほとんど一瞬で討ち滅ぼされた。多人数で襲えば相手が強くとも関係がない。そう思っていた男たちは、そして彼らを焚き付けた女は、今や呼吸すらしていない。
鉱石の瞳で彼らを睥睨した少女は、その眼に強く力を込めた。ぎん、と鉄と鉄を叩き合わせたような音がして、路地の空気の流れがぴたりと静止する。まるで刺すように鋭い視線を、死体の上を撫でるように動かしていくと、突如、全ての死体が全く同時に、ぼんっ、と弾けるような音を立てて真っ白く燃え上がった。
“邪眼”と呼ばれる異能がある。邪視、凶眼などとも呼ばれるそれは、キリスト教、仏教、イスラム教、ユダヤ教……おおよそ全ての宗教文化圏に存在する眼という器官にまつわる伝承の中でも特に多い、“視線による呪詛”の事を指す。妬みや憎しみの籠もった視線が人に災いをもたらすと言われ、幸せな人、富める人、幼児、美人、妊婦などがその被害を受けやすいという。
少女の視線はまさに邪眼そのものであった。凍てつくような無表情の中、その視線の中にのみ強烈な感情が渦巻いている。
そこには、嫉妬であり、憤怒であり、憎悪であり、嫌悪であり、殺意であり、破戒であり、暴虐であり、蹂躙であり、その全てを同時に兼ね備える膨大な負の感情が、凝り固まったマグマのように静止している。
一度力を込めて視線で射抜けば、並の人間など
壊れているが故に完璧。欠損が故に無欠。
全ての負の感情を兼ね備え、それ故に表面的には無感情。
存在そのものが根底から矛盾する
彼女は本来自分から動くことはない。彼女の完璧は負の感情による反射によって成り立つが故に、自分から動く意志を持つこと自体が滅多にない。
しかし、その彼女がいま能動的に活動している。突き動かしているのは
「……イコ」
その名を呟く彼女の頬には、誰も気付かないほど微かに笑みが浮かんでいる。瀟々と死体を燃やす白い炎が少女の顔を蛍光灯よりなお白々しく照らし出す。
「──それ、友達の名前?」
その声は唐突に背後の空から降ってきた。急速に反転しながら抜剣し、その先端を声の源に向ける。
「わあ、怖い怖い、怖いな。
やめてよ、そんな物騒なもの向けるのは」
軽薄な声が静かな路地に響く。剣の指す先、鉄のフェンスのその上に、一つの影が座っている。影は向けられた剣先を左手の甲でぐいと押しのけて、よっ、と一声上げてフェンスから飛び降りた。蛍光灯の白々しい光にその姿が明らかになる。
トップは
真っ白になるまで脱色された髪は長く真っ直ぐに流れ落ち、前髪は眉の上で一直線に切られている。目元には青く尖ったファッショングラス。そして首には犬につけるような棘だらけの首輪。唇に載っているのは青いリップとねじ曲がった笑み。皮肉げと言うべきか、むしろ楽観的なのか、それとも両方か。ともかく口元を微妙な笑みの形に歪めている。まるで少女のような出で立ち。顔立ちも人形じみた綺麗な顔だ。
しかし、先ほど響いた声は確かに男の──少年のものだった。骨格も、細い作りではあるが男性のものだ、と少女の目は判断する。
「…………」
少女は動きに合わせて一歩下がり、逸らされた剣先を改めて少年の眼前に突きつける。
──進行を阻む者は皆殺しにする。
「あんまり殺気立たないで。目立ってるよ? 僕達」
しかし少年はその軽々しさを失わない。それどころか首を前に傾けて目の前の切っ先を舌でべろりと舐めてみせる。
「ん……この剣、純銀?
わぁお、たっかそー」
けらけらと笑う少年に、少女は視線を据えて、
「……失せろ」
この場で初めて、言葉を口にした。その声には視線よりも劣るものの、ただ聞くだけで人心を圧迫し、恐慌に陥らせるほどの呪詛が込められている。同時にぎん、と音を立てて空気が静止し、剣先よりも鋭い視線がゆっくりと少年の目に向かって身体の上を滑っていった。
そして視線がその眼を捉える。
しかし。
彼は笑いながら、握っていた“何か”で目の前の空間を
ぎゃりんっ
鉄を鉄で切るような不快な擦過音がして、視線が
「……ッ」
少女は音も立てずにバックステップして距離を離す。レイピアを構える右手はそのままに、重心を低く、何時でも突進できる体勢を整えた。そんな彼女の有様を見て、少年は苦笑いを零す。
──ちょっとやりすぎちゃったかな。
などと口の中で呟きながら、手に持っていた何か──バタフライナイフを、くるん、かちゃ、くるん、かちゃ、と二度開閉させた。
少女は吐息に、そして視線に呪詛を乗せる。他者に対する理不尽にして絶対的な憎悪が、肺腑と視神経を通って世界に顕現する。間隔は約十六フィート。強い“力”を使うのにも十分だ。死体を白く燃やす程度の呪詛では足りない。目の前の少年を殺して殺して殺して殺すだけの高密度な憎悪が彼女の胎内から汲み上げられた。
ばぎしッ
鉄同士を叩き付け、押さえ付けて捻るような音が、路地の空気を一瞬にして
「……
“
ぎゃりん、ぎゃががりりんっ!!
その、圧倒的な二つの呪詛を、少年はたった一本のナイフを二度振るだけで切り払った。
「……馬鹿な」
呻いた声は呪詛すら載らぬほどに低く、己にしか届かない。
少年の身体には“力”が視えない。“能(ちから)”はあるようだが、その接続(リンク)が断絶している。あんな能力──死んだものすら
「……『馬鹿な』、って言ったでしょ」
くすくすと子供のように笑って、少年は一歩踏み出し、
そして、少女の目の前にいた。
少女は無言で眼を見開く。その視線には呪詛は載っていない。十六フィートの距離を一歩で詰めるなど、尋常な技術ではない。その行為に対する単純な驚き。
そして少年の手がつい、と上がり。
少女の頭にぽん、と載った。
「…………」
その行為に少女は疑念を隠せない。この距離でも、自分の事を考えなければ強力な呪詛は使える。首をねじ切られる前に視線を一瞬でも合わせればいい。いや、むしろ首をねじ切られればその呪詛は完成する。少年が死ぬまで確実に追撃し、確実に殺し尽くすだろう。だが、少年は少女の首をねじ切ろうとはせず、少しゴツゴツした指先を持つ大きな手のひらが、少女のダークゴールドの髪をくしゃくしゃと撫でる。
「殺したいわけじゃ、ないんだよね」
唐突に少年が言う。
「君さ、一週間ぐらい前に空から
──まさか、あの日から私を追っていたというのか?
少女は戦慄する。呪詛の為に完成した彼女にとって、不意打ちほど危険なものはない。集中する時間が在ればこそ、彼女の呪詛は効果を持つ──思考のない呪詛は怨念しかない。故に彼女は常に周囲を警戒していた。だが一週間の間、一度たりとも少女は少年の気配を感じたことはなかったのだ。
「……まぁそう固くならないで聞いてよ、ね?」
にこにこと笑って少年は髪を撫でる手を離し、少女の頬に手を添える。
「
と、彼は言った。
突然の事に少女の思考が止まる。彼女はそんな言葉を聞いたことがなかった。
突然ぴたりと止まった彼女を見て、少年は何を勘違いしたか多少慌てて、
「別に、君のカラダが目的だとか、そんなわけじゃない。僕はそんなことに興味は……うん、あんまり、ない。
僕が興味あるのは、
それ以上でも以下でもない。
……いや、イイ関係になるのはやぶさかじゃないけどね。君、可愛いし」
そして少年はくすくすと笑う。
少女はそんな少年を見て、良く判らなくなってしまった。殺す事に興味があると言いながら自分を殺さない少年。殺すことに興味もなく、ただ憎悪のままに殺す自分とはあり方が違いすぎる少年。
「……君の殺し方はとても綺麗だ。楽しまない、喜ばない、容赦がない。
僕みたいな快楽殺人者とはケタが違う。君みたいな殺戮者(マロゥダー)に、僕はずっと憧れていた」
蛍光灯を見上げながら、少年は独り言のように呟く。少女はただそれを聞いている。
「だから僕にとって君は理想の女の子だ。憧憬の対象、崇敬の対象。
だから
……ねぇ、君は何を望むの?」
唐突に投げかけられた問いに、少女は回答(こたえ)を持たない。彼女には願望がない。
……いや、ただ一つあるとすれば、それは、
「……親友(トモダチ)の願いを叶えたい」
何故か、口を吐いて漏れ出てしまった言葉に彼女は内心動揺する。こんなこと、誰にも言ったことはなかったのに。
へえ、と少年はさも感心したような顔で頷いて、
「主張がないと主張するわけだ。
それは面白いや。うん、面白いよ、君。君自身は全然面白くないだろうけどね」
勝手に納得してくすくすと笑う。本当に嬉しそうに、楽しそうに笑う。
少女は低くしていた身体を起こし、レイピアを鞘に納めた。無表情に──内心憮然と──少年を見る。その視線には無意識に漏れ出る呪詛がまとわりついているが、少年はそれを気にした様子はない。
……いや、無意識に掻き消しているのか。
少年は彼女を見て嬉しそうに笑っている。その笑顔と先ほど口に出したばかりの願望と似たモノを混ぜ合わせて舌の上で転がしてみると、それはなんとも甘い味がした。
少年がそれを手伝うというならば、喜んで受け入れよう。
一人でも二人でも、それはきっととても甘いはずだから。
無言で歩く少女の後を、少年は黙って着いていく。頬には笑顔、手にはバタフライナイフ。身体に流れる血潮は熱く、脳に流れる電流は何処かでねじ曲がっている。今夜はこんなに楽しい。殺してもいないのに。
「……ねえ」
少女の背中に声をかけた。少女は立ち止まって彼を見た。その目が疑問詞を投げている。
「名前、教えてくれる?」
ひょう、と風が吹いていった。八月の夜には相応しくない、けれど当然の冷えた風。なびいた少女の髪が白々しい光にきらきらと光る。
「……ウル」
そして答えも、風に乗ってやってきた。
──ウル。舌の上で転がす。ウル。
「素敵な、名前だね」
嗚呼、本当に素敵な名前。この少女に相応しく、シンプルで、美しい。
少年は陶然として彼女を見る。ふと彼女の唇が動いた。
「……貴方は?」
──嗚呼、そうか。名乗っていなかったっけ。
「僕は、
少女はこくりと頷いて、また歩き出す。少年は頬に笑みを浮かべてその後を追う。
──こうして二人の殺人鬼は蛍光灯の白々しい光の中で出会い、共に闇の中を歩み出した。
2014,08/20 14:30
「岩魚さん!」
ととと、と軽い足音と共に、ミラが駆け寄ってきた。俺の横に滑り込んできて、がば、と上半身を抱きかかえる。
「来るな」
と、唇だけを動かす。声が出ない。喉がからからに渇いて、掠れ声すら出せない。
「……ごめんなさい、ごめんなさい、私が余計な手出しをしなければ……」
ぽつり、ぽつり、と。顔に熱いものが零れて、眼窩から流れ出す血と一緒にとろとろと流れていった。
──左目も、潰されている。
泣きながら、ミラは俺の左腕に手を翳す。青白い光が切断面を包み、出血が目に見えて少なくなった。
じゃり、と足音。ミラは顔を上げ、足音の主──探湯を睨み付けた。
「あなたは……何故、こんなことを……!」
ミラの怒気の籠もった声に、しかし探湯はにやりと笑って、
「おめぇが素直に逃げねえからだよ」
けけけ、と笑って続ける。
「おめぇはな、逃げなきゃいけなかったんだ。
ガキが時間を稼いでる間にな、逃げてどっかに行っちまえば、そいつは俺とギリギリまでやり合わなくてすんだんだ」
わかるか? と、嫌らしい笑顔。
ミラの唇の端から一筋、血が伝った。きち、と音がするほど、唇を強く噛んでいる。
「……それでもおめぇはすぐに捕まっただろうし、俺はこいつを斬ってただろうけどな」
また、けけけ、と笑う。……耳障りだ、この笑い声は。
「ま、そういうわけだ。
俺はおめぇを確保して帰る。
ガキは此処でのたれ死ぬ。
これがおめぇの招いた結果、お終いだ」
歪んだ笑顔のまま探湯はそのゴツゴツした手をミラの頭に伸ばし、綺麗な髪をぐしゃりと掴んだ。ぐい、と引きずり上げると、ミラの身体が引っ張られて持ち上がった。ミラは俺の身体を離さず、探湯の顔を睨み付ける。
「……邪魔くせェな」
探湯の手がふっと上がり、ぱん、と言う音とともにミラの頬が赤く染まった。それでもミラは俺の身体を離さない。視線も外さない。
「……腕ぐらい切り落としても問題ねえな」
そう言って、探湯は右手を挙げ、そこでぴたりと止めた。
いや、止められた。
「……や、めろ……」
唾が飲み込ず掠れた喉で、ほとんどまともには出ない声を出して、探湯を静止する。俺はどうにか折れた右手を持ち上げて、探湯の手首を掴んでいた。指の骨が軋むだけで激痛が走る。
「……まだやる気か、ガキ」
探湯の視線は俺に移る。ミラの視線も同様に。
──ああ、そんなに悲しそうな顔しないでくれ。こっちの方が苦しくなる。
腕なんかよりよっぽど痛い。
「……一度、守ると決めたからには……
死んだって……守ってやるさ」
呻き声にしか聞こえないような声で言って、手首を掴んだ手に力を込める。指一本を曲げるだけで何処かに消えてしまいそうな激痛。……けれどそれよりも、今すぐ側にあるミラの悲しそうな顔の方がつらい。
「──守る、だと?」
突然探湯が笑い始めた。けけけ、と気に障る声を上げ、そしてやがて喉を鳴らすようにくつくつと、最後には口を開けて、ははははははは、と笑い、そして掴んでいたミラの髪を離した。
「このガキ、“魔女”を守るだと? は、ははははははははは!」
勢いミラは倒れ込み、俺は探湯の手首を掴んでいた右手を痛みのあまりに離して一緒に転がった。地面にぶつかった勢いで左腕の傷口がまた開く。ぶしゅ、と音を立てて、噴霧したように血霞が舞う。
「……だ、駄目です、岩魚さんっ……」
ミラの声を無視して腹筋に力を込め、勢いだけで上半身を起こす。揺れただけで右腕が痛む。ぎりり、と奥歯を噛み締めると左腕からとろとろと血が零れた。
「……ッ」
息を吐きながら、脚の力だけで立ち上がる。腕が使えないことは恐ろしいマイナスだ。
だけど、それでも。
俺はこの男にミラを渡したくはない。
「……傑作だな、おめぇ」
一頻り笑った探湯は、目の端に浮かんだ涙の雫を指で払って、それでもまだ笑いの衝動を抑えきれないようだった。
「本当に傑作だ。
その傑作具合に免じてこの場は見逃してやるよ」
身構える俺に、奴はそう言って背を向ける。身体を震わせるほどだった殺気は、何もなかったかのように消えていた。
「……どういう、ことだよ……」
また呻くように言うと、探湯は顔だけ振り返って、
「見逃してやるって言ってんだろ? 素直に逃げとけよ。
お前らはメインディッシュだ。
一度で食い尽くすには勿体ない。次会う時にまた楽しんでやる」
──くそッ、
「ミラ…… 逃げよう」
俺は構えを解きながら一歩、二歩と後退った。丁度その位置に、立ち上がったミラがいる。彼女はこくりと頷いて、僕の左腕をその細い肩に掛け、
「……行きましょう」
言って、歩き出した。
ミラの背の高い身体に引っ張られるようにしながら、俺達は逃げていく。無様に、のろのろと。
一度振り返る。探湯の白い背中が俺を嘲笑っているようだった。
「……ごめん、ミラ」
呻き声を上げる。
「……謝るのは私の方です」
ミラは応える。まっすぐ前を向いたその横顔が悲しげに歪むのを見て、俺は何故だか、叫び出したくなった。顔を俯けて、強く奥歯を噛む。
──なんで俺は……
今まで感じた事もないぐらいに、歯を軋る程度ではすまないぐらいに。
──なんて、弱いんだ。
負けたことなんて悔しいうちにも入らない。
ただ、ミラのその顔が、悲しそうな横顔が、
ふと、視線を感じて顔を上げる。ミラが少し高い視線で俺を心配そうに見つめていた。
「……大丈夫、だから」
呻いて、眼を伏せる。合わせられる顔がない。悲しくてやりきれない。
急にミラが脚を止めた。
「……どうしたんだ?」
顔を上げた、その目の前に、ミラの顔があった。驚く間もなく俺の唇に柔らかい感触。そして吐息と共に、何か暖かいものが俺の中に流れ込んでくる。
数秒間、俺達は唇を合わせていた。
唇を離し、俺とミラは見つめ合う。目の前に青い瞳。濡れて揺れるそれが、俺の眼を映している。
「……あなたは、私の為に戦ってくれたんです。
例えどんな結果だとしても、
彼女は言って、もう一度、今度は俺の左瞼に口付けた。流れ続けていた血が止まるのが判る。
暖かな流れを感じながら、俺は心の中で誓った。
──ミラがどんな事情で現れたのだとしても、俺は彼女を守る。
明確な理由があるわけじゃない。ただ、守らなければ間違いなく後悔すると、何故か判る。
その時、俺の心は一つの
けれど、その理由はまだ、わからなかった。
5th track "Beginning is from the end." out...