2014,08/16
──地下二十メートル。
長く暗い廊下を、一人の男が歩いていく。
ダークグリーンのスーツにサングラス。首元に覗くシャツの襟は白く、それだけが薄闇の中にくっきりと浮かび上がっていた。
身長は百八十センチ台前半といったところか。余分なものがすべて削ぎ落とされた「痩せた筋肉」がその体躯をぴしりと引き締めている。目鼻立ちは鋭く、少し頬がこけているが不健康な印象はない。瞳は茶色で、髪は黒。少々長めになっているが特別目立つほどでもない。ただ、前髪の下で周囲を睥睨する目つきが、その存在が凡百のものではないことを示している。ただの男と見るには力強すぎる、まるで猛禽のような眼。
その男、名を阿部貴康という。
廊下の果て、薄闇の最奥に一つの扉がある。
一見するだけでは闇に紛れてしまうような暗い色に塗り込まれた鉄扉。それは通常の扉とは違い、劇場やスタジオのような防音効果の強い構造を持っていた。このフロアに入る為の階段には三カ所の警備と三重のセキュリティ──ID、網膜、声質のチェック──によって守られ、さらにフロア自体も二十八のダミールーム、そして日本国内では最高水準の重武装セキュリティ・ロボットによって警備されている。
それにも関わらず、その部屋を利用出来るものはたったの十一人しかいない。その暗さ故に殆ど見えないが、人目の届かぬ鉄扉には、しかししっかりと室名が刻まれている。
即ち、『宮内庁防衛局抗魔課』と。
防衛庁、そして自衛隊という表の守護者とは違い、決して外部に知られることのない日本という国の護り手。彼らはたった十人の戦闘部隊。古代より脈々と繋がる力在る血統によってその生業を与えられた、天皇直下の超法規組織である。
そして、今、其処にはそのうちの六人が揃っていた。
「あら、阿部ちゃン。遅かったじゃなイ?」
ドアを開けて入ってきた阿部に笑いかけたのは部屋の真ん中の机に寄りかかっている女。小首を傾げるようなその顔の動きに、茶色いウェーブヘアがふわりと揺れる。
「……おめえも十分遅刻してんだろ、生玉よォ」
呻くような声で言うのは椅子に寝そべった男。机の上に組んだ脚を乗せだらりと両腕を垂らした格好にも関わらず、何故か隙がまったくない。腹の上で組んだ手の下には黒い鞘の太刀がある。
「お前は言えたもんじゃあないじゃろう、探湯」
部屋の最奥、未だ暗い大型ディスプレイの前に立つえびす顔の老人が言った。清廉な白い着物の襟首から覗く胸元には、正三角形を描くように三個の勾玉が埋め込まれている。
「全くだ」
と面白くもなさそうな仏頂面で言ったのは黒いシングルスーツに身を包んだ男。口元と顎を蓄え、その一挙手一投足に重々しい気配が漂っている。手元の書類になにやら書き付け、忌々しげに舌打ちをした。
「……揃ったのでしたら、始めませぬか」
涼やかな声で言ったのは、白い着物に朱袴の、所謂巫女装束を纏った女。その瞼はそっと閉じられ、口元には柔らかな笑みが浮かんでいた。長い黒髪が絹糸のようにさらさらと揺れ、肌は磁気のように白い。整った面立ちをしているが、彼女の美は存在を強く主張しない。柔らかな月光のような美しさである。その肩には「比礼」と呼ばれる薄い飾り布が三重に掛かっていた。
「そうじゃな。頃合いだ」
老人が言って、ディスプレイのスイッチを入れる。部屋を白々しく照らしていた蛍光灯が消え、電球の緩やかな光がそっと薄らいでいく。探湯と老人を除く全員が椅子に座り直した。細長い机を囲む十一の椅子、その六個が埋まった。
視線はディスプレイに向かう。
「それでは始めるとしよう。
といっても議題は一つしかないのじゃがな」
言って、ディスプレイの前に立った老人は視線をだらりと寝そべる探湯に向ける。探湯はその視線に応えず、面倒そうに視線を逸らす。声を殺して欠伸すらしてみせた。髭の男の眉がびくりと跳ね上がる。額に一筋の青筋が入った。
その様を見た生玉が、探湯に代わって立ち上がる。
「……
普段の変な発音がないその言葉に老人は、ふむ、と頷き、彼女を促した。
「……一昨晩、午後九時二十分頃、佐渡島北方四キロの海上、高度約三百キロメートルに未確認飛行物体一七六号が飛来しました。案件一四五六三二四番です」
言って、席を見回す。髭の男が頷き返した。
「一七六号はその後高度を下げながら南下、神奈川県中央部に到達し、高度約三十メートルで三つに分裂。
一つはその場で降下。
一つは西に飛び、京都府西部、兵庫県の境に降下。
もう一つは北東に飛び、福島県か宮城県に降下したと思われます」
「思われる──かね」
尋ねた老人に生玉は頷き、
「三つ目に関しては調査が及びませんでした。
高度一キロ程度に細長く痕跡は残っているのですが、風に流されてしまい追い切れなかったのです」
なるほど、と老人は首肯し、続きを促す。
「京都府西部に降下した一つは、丁度近郊にて任務に当たっていた阿部五位が対処しました」
視線が阿部に向かう。阿部はふと瞼を閉じて、
「……落下点には特に被害はありませんでした。何者か、強大な超常が現れた痕跡はありましたが、到着の時点までに逃走した模様です。逃走手段は恐らく徒歩。遁行法を使った気配はありませんでした。
……以上です」
淡々と言って瞼を開く。瞳を見据えられれば心まで見抜かれるが故の対処。即ち、この部屋で瞼を閉じるということは嘘を吐いているということだ。
く、と小さく喉を鳴らすような笑い声は目を逸らしていた探湯から漏れていた。老人は視線を向けるが、探湯は何も応えることなくまた目を逸らす。
生玉は一つ溜息を吐き、阿部の後を継いだ。
「……神奈川県中央部に降下した一つには私が対処しました」
と、机の下部にセットされたキーボードから座標位置を入力する。ディスプレイに地図が映し出され、ある程度まで拡大された。
「当該地点は河原で、周囲には普通に民家があります。
警視庁の協力により地元住民の聞き込みを行いましたが、周囲五百メートル以内の範囲で降下体を目撃した人間は〇名とのことで、完全に“逸れ”た物体という可能性が強いと思われます」
その発言に老人と髭の男、そして巫女服の女性の表情が変わった。
「完全に“逸れ”た物体だと……
あり得ん。それはとうに遺失された」
呻く男に、老人は頭を振って、
「……出所が
我々とは系図が違うのだから」
その言葉に男は、む、と一言呻いて口を噤んだ。
「生玉、続けてくれ」
老人が言い、生玉は頷いて再び口を開く。
「当時当該地点には民間人の少年が一名いたようです。
物体は降下中に顕現、少女の形態をとって落下した処を少年に保護されました。
その為、以下当該物体を“少女”と呼称します」
視線が集中し、空気がびん、と張りつめる。
「……その少年、何者なんだね」
髭の男が呟く。その小さな声に、緊張した空気がさらに強く張り詰めた。
「……名前は鳥海岩魚。年齢は十四歳。
両親は共に健在ですが四年前に刑事事件を経験してから性格が豹変し、その一年後に鳥海岩魚は逃亡。
現在当該地点近郊の犯罪組織幹部との間に雇用関係を持っています」
老人は生玉を見据え、尋ねる。
「しかし、それだけならば確保出来ているじゃろう? 何か問題でもあったのかね」
彼女は首肯し、
「はい、そのはずでした。
……問題はただ一点。鳥海岩魚が“
一瞬の静寂。
唐突にがしゃん、とけたたましい音を椅子が転がり、髭の男が勢いよく立ち上がった。
「馬鹿な……! そのような偶然があってたまるものか!」
「ですが、事実です」
生玉は静かに否定した。それは彼女自身が確かめたことだ。
“カテゴリA”。顕在的超常能力者を差す隠語である。そのAはAbilityのAであり、同時に最上級を示すAでもあった。
「鳥海岩魚が少女を連れ帰る途中接触し、引き渡すよう交渉しましたが、決裂。
交戦の結果、能力の実態は確認できませんでしたが、発動時間の短さ、状況対応能力や身体能力から判断しました」
立ち上がった男の目をひたりと見つめて言う。その顔をディスプレイの光が青く照らしている。
「鳥海岩魚の総合戦闘能力はB+クラスと推定されます」
その言葉に髭の男はかっと目を見開き、
「……民間人、しかも十四歳の少年が、B+だと! 正気で言っているのか?!」
がん、と机を叩いた。老人が一つ大きく咳払いをして、
「……
八握──髭の男は拳を強く握ったまま、倒した椅子を立てて座り直し、
「……続けて、宜しいでしょうか」
生玉の言葉に苛立たしげに、
「ああ」
とだけ応えた。では、と生玉は続ける。
「不意を打たれ創傷した結果、B+クラスを相手に私単独で継戦することは不可能と判断し、撤退しました。
なお戦闘中仕掛けた盗聴器から得た情報では、少女は鳥海岩魚の住居に同居する形になったようです。
……以上、報告を終わります」
そう言って生玉は八握を見、一礼して着席した。
「ふむ、なるほどな。
……で、生玉六位に同行していたはずの探湯九位はどうしていたのかね」
頷きながら言う老人に、探湯は面倒臭そうに応える。
「つまんねーガキ相手だって言うから生玉に任せといた。B+だっつーなら最初っから行ってたよ。
俺が追いついた時には家に入っちまってたから深追いは辞めといた」
その口元はいやらしくにやけている。
「いい加減お前の怠惰には呆れざるを得んな。
……まぁ良かろう。何か意見は?」
と、老人は室内を見回す。
八握は不機嫌そうに黙りこくり、阿部は目を伏せている。生玉は静かな目を老人に向け、探湯はやる気無く横たわり、巫女装束の女性はただ口元に小さい笑みを浮かべて正面を向いているのみ。
老人はその様に一つ溜息を吐いて、
「……では、この案件、引き続いて阿部五位、生玉六位、探湯九位の管轄としよう。よろしいな」
と、確認する。総員が首肯し、決議は成った。
「では、案件一四五六三二四番を終了する」
ディスプレイの電源が切られ、同時に照明が灯って部屋が明るくなった。
「玉老」
廊下に出た老人を呼び止めたのは八握だった。
「……奴ら、何を考えているのでしょうな」
少し逡巡した後、先を歩く老人の背に八握の声が届く。
「さあ、なぁ」
と老人はこともなげに応えた。
「奴らも十分な力は在る。状況を見計らい、最悪の事態を招かないのが儂らの仕事じゃろう」
む、と八握は呻いて、
「しかし、生玉と阿部はともかく、探湯はどうにも解せない部分が多すぎます。
奴は事態を混乱させ、己の力を振るう機会を求めているだけに思える」
老人は、だろうな、と口の中で呟いた。
探湯は、玉や八握にとって当然の『血統』という判別基準を認めない。全て同等に“強い”と“弱い”で他者を見ている。だからこそ、己の力を証明し、常に“強い”ものでなければ、探湯にとって己の価値はないのだ。
そう思いながらも老人は八握に向き直り、
「何、大層な事にはならんよ。奴はあくまで一人だ。
それよりも儂らは、事態が大きくなった時の事を考えねばならん」
と、八握にだけ聞こえる声で言った。既に部屋からは暫く離れ、廊下には誰の姿もない。だが、彼は声を潜めている。
「……大事が待ち受けていると仰るのですか」
応える八握の声も、また小さく。先ほどまでの怒りが籠もったそれではなく、冷静な声であった。
「……恐らくな。
空から振ってきた“少女”。“逸れた”存在、少年が鳥海姓なのも気になる処だ……。判らぬ事が多すぎる。
事態を正確に掴まねばなるまいて」
言って、老人は再び歩き出した。その背中を見ながら八握は思う。
──果たして事態を把握してからで我らは間に合うのだろうか、と。
「おい」
不躾な声に応じて顔を上げた阿部の前に立っているのは探湯。懐手にした左手を差した刀の柄に掛け、右手はだらりと垂らしている。
「てめえ、何隠してんだよ」
だが、その身に帯びた殺気は濃厚。どろりとこびり付くように阿部の首筋に剣気が這う。
「……君には特に害がないことだ」
阿部は再び瞼を降ろし、探湯から視線を外す。その仕草に探湯はにたりと笑い上体を倒して、
「……てめぇをノして獲物かっさらってやろうか?」
と、阿倍の耳元で囁いた。
がしゃん。
けたたましい音。この部屋では本日二度目のそれを立てたのは、阿部だった。
「…………」
無言のまま、探湯の襟を掴み、その猛禽のような目でぎろりと睨み付ける。部屋に残った四人のうち、当事者が二人。そして傍観者が二人。
「おうおう、怖ぇ怖ぇ」
対する探湯はへらへらと笑っている。その右手がそっと刀に掛かかろうとした瞬間。
ひたり。
と、まるで水の如く清涼な気が吹き付けて、二人の視線は部屋の奥、椅子の一つに向く。
「……
気の源は巫女服の女性。口元の笑みは柔らかく笑んだまま、目元は優しく閉じたまま──いや、そうではない。彼女の瞳は閉じているのではなく、
「お辞めください。わたくし、血の香りは厭うております」
さらり、と涼やかな声が耳朶を撫ぜる。阿部は掴んでいた襟を離し、
「……失礼を」
とだけ言って椅子を立て直した。探湯はけ、と呟いてそっぽを向く。
「あんたラ姫さンには弱いわヨネ」
すぐ側で椅子の背もたれに寄りかかりぎしぎしと軋ませていた生玉が、笑みを含んだ声で言った。しかしその言葉には応えることはなく、数秒の間をおいて阿部は、
「……約定だ。
俺が殺さなければならない」
独り言のように、しかし探湯の瞳を強く見つめて言う。その視線には常ならぬ強い力が込められていた。
その言葉に探湯は、くく、と喉を鳴らし、
「“約定”ってんじゃあしょうがねえなぁ。……ったく、モテる男は羨ましいね」
からかうように笑って、ぺたりぺたりと草履を鳴らし、扉に向かって歩き出した。
「何言ってんノヨ、んな浮ついた話じゃないでショーが」
ぎしぎし、軋む椅子の上で生玉が半眼で睨む。けけけ、と笑い声だけを残して、扉が閉じた。部屋に残るは三人。短い沈黙が落ちる。
「……間違っては、いないのかもしれません」
阿部が、その沈黙を破った。
え? と生玉が振り返り、比礼が小首を傾げる。
「……今までの人生で感じたことのない執着。
相手を思って止まないのを恋と言うならば、この気持ちは恋と如何程違うでしょう」
呟いて、阿部もまた背を向ける。
「……姫御、先は失礼を。
生玉、データを転送して置いてくれ」
そう言い残して、部屋を出ていった。
残された女二人は無言のまま。
蛍光灯は白々しい明るさで彼女達を照らす。ぎしぎしと椅子を鳴らして、くくく、と笑う生玉は、
「恋ネェ…… 阿部には似合わないったらないと思うケド」
対照的に、比礼の表情は重く、常に絶やすことのない笑顔すら消えている。
「……どしたノ姫さン?」
椅子から乗り出して、生玉は比礼を見る。その白い顔(かんばせ)に憂いが籠もること自体滅多にあることではなく、それが表れた時に良い兆しは決してない。
「……“視”えた?」
表情を固くする生玉に、比礼ははい、と応えて頷き返した。比礼はその巫女としての素養から、“未来視”──人の前途を、まるで白昼夢のように“視”るという力を持つ。
「……彼の前途に、私は何も……光も、闇すらも視えない。
……恐ろしくてなりません」
唇をきゅっと噛んで呟く彼女に、生玉は何も応えることが出来ない。
力の代償に視力を失った比礼にとって、光と闇すらも感じられない世界とはどれほど寄る辺のないものだろうか。そしてそのような前途しか見えない阿部の未来はどうなるというのか。
彼女には想像も付かなかった。
第四幕「守護者の相違」
2014,08/20 12:08
「──え?」
聞き返す俺に、彼女はもう一度言い直した。
「ええと、今日の夕食はどうなさるんですか、って言ったんです」
「ああ、今日は仕事もないから家で食べるよ」
俺を見ている彼女に視線を合わせて応える。
「それじゃあ、今日は私がご飯を作りますね」
彼女は言いながら少し前に出て、俺を振り返ってにっこりと笑った。俺は少し戸惑いながら頷きを返す。
ミラが空から墜ちてきてから昨日で丁度一週間が経っていた。
彼女は──ある意味思った通りだったのだが──常識的なことをほとんど知らなかった。とは言っても別に金で物を買えないとか、人前で服を脱ぐとか、そういうレベルの非常識ではない。
ファーストフードのハンバーガーを囓るのをためらったのは育ちがいいのだろうと思って納得できたのだが、そもそも外食をするということ自体が彼女の常識になかった。コンビニにいったら棚に並んでいる品物を見て何度も驚いていたし、紙幣を渡しても最初はなんだかわかっていなかった。コンロに火を着けたら慌てて水をぶっかけようとしたし、テレビに話しかけていたし、電話のベルで飛び上がるほど驚いていたし、交通量の多い道路を見て、
「みんな鉄の戦車で走り回っているから戦争かと思いました」
と言われた時はさすがに笑ってしまった。
詰まるところ、彼女は“普通”ではない。
けれどそれは別に俺にとっては大して気になることではなかった。俺だって一般的に見れば十分普通ではないのだから、そんな俺が他者に“普通”を求めるのは酷く理不尽な話だと思うのだ。
そんなことを考えていると、突然ミラが俺の方にそっと手を伸ばしてきた
「ん?」
向き直る俺に、
「汗が目に入りそうでしたよ」
と言って、額をハンカチで拭ってくれる。俺は内心少し慌てながら、
「ありがとう」
とだけ言った。
……何故、慌てるのだろうか。自分が良く判らない。
そもそも彼女と出会った時から、自分の事が全然判らなくなってきた。他人に興味はなく、世界から距離を置き、一定のバランスを保って、ただ静かに死んでいく。三年前、家から逃げ出した時に俺はそういう生き方を選んだ。
──なのに、どうして俺は彼女を助けたりしたのだろう。
何故彼女を家に住まわせたりしているのだろう。
同情したわけではない……多分。
元々親切な人間でもない。行き倒れぐらいなら何度も見捨てているし、彼女が本当に道ばたに倒れていただけだったら、きっと今回も見捨てていただろう。理由になりそうな事など頭に思い浮かばない。
──何処かに判断理由があるはずだ。
俺は自分を把握出来ないのが嫌いでならない。しかし答えはそう簡単に出てはくれなかった。
──これは厄介な問題だ。
俺は空を見上げて口の中で一人ごちる。
──多分たった十四年の短い人生の中で、一番厄介で、そのくせ酷く、厭になるぐらい単純な問題だ。
ふと気付く。急に空を見上げて立ち止まった俺に、ミラが不思議そうな視線を向けていた。頭一つ分高い位置から俺を見下ろしている、兎のように心配げな瞳。俺は、
「なんでもないよ」
と応えて再び歩き出した。
今の時刻は正午を少し過ぎた辺り。暑い真夏の昼下がり、平日の割に買い物に出る人は意外と多いようで、商店街はそこそこの賑わいを見せている。丁度時期的には夏休みだからだろう、若い女性が多い。
この商店街を抜けた先には十年以上前から大手のスーパーがあり、食料品はそこで大概揃ってしまう。しかもそのスーパーには地元の八百屋や魚屋、青果店が吸収されている為、この商店街に立ち並んでいるのは服屋だとか本屋だとか雑貨屋だとか、ゲームセンターやファーストフードの類が主だ。特にファーストフードは同時期に出店した店舗が多く、五百メートル程度の商店街に何故か六軒も連なっていて、周囲一帯で最大の激戦区になっている。
──さて、昼はどうしようか。ミラが墜ちて来た日は色々あわただしかったのでハンバーガーで済ませたが、それ以来基本的に外食はしていない。彼女は外食をするという発想それ自体がなく、他人の前で食事することに強い羞恥を覚えるようだった。だからあまり凝っていない程度に自炊したり、店屋物を買ったりしていたのだが、外出中ではそういうわけにもいかない。
「ええと、さ」
少し言い淀んでから、
「最初の日みたいに店で食べようと思うんだけど、どうかな」
と聞くと、ミラは一瞬眉根を寄せて、けれどすぐにうっすらと微笑んだ。
「……少し恥ずかしいですけど、我が儘は言っていられないですし。人前で食事をするのって、普通のことなんですよね?」
うん、と頷き返すと、
「ならいいです。お店で食べましょう。そのぐらい早く慣れなくちゃ」
ぐっ、と拳を握って見せた。
さすがにファーストフードは避けて、一度だけ進藤に連れて行かれた事のある小さな洋食屋で昼食を取った。俺はスパゲッティ・カルボナーラ、ミラは魚介のリゾット。周囲を気にしている様子はあったが、時間の割には空いていたのでそれほど手間取ることはなかった。
食事の後は近くの服屋に行って、ミラの服を買う。元々が綺麗で人目を引くから、何時までも半端に小さい服を着せておくのはみっともないと思ったのだ。俺には女の子の服の見立てなんて出来ないから好きに選んでくれ、と言うとミラは散々悩んだ末に何着かを選んだ。上下三揃いと黒地に白ラインのスニーカー、ついでに白いソックスを六本買う。これで暫くは着替えに困ることもないだろう。
金は──当然だが──俺が払った。彼女はしきりに恐縮していたが、そもそも金なんか持っていないし、稼ぐことも難しいだろう。面倒を見てやろうと決めたのだから、出費ぐらいは気にはならなかった。俺は進藤との雇用関係で得られる金を半ば持て余しているし、それほど使う充てもない。あまり継続して生き続けているという実感は持っていないから貯金をする必要性も感じないし、財布を重くしておくよりは満足できるように使った方がすっきりして気持ちがいい。
商店街を抜けた先、大きなスーパーの向かいには、これもまた大きな公園がある。
人混みの中を抜ける間にまた幾らか余計な汗をかいてしまったので、スーパーの前のスタンドでソフトクリームを買った。バニラミルクとチョコレート。冷たいくせに柔らかくて甘やかなそれを、ミラは最初は恐る恐る、その後は喜んで食べていた。その喜び方はまるで子供みたいで、俺もなんとなく嬉しかった。
そうして、今は二人でベンチに座っている。間に荷物でも置いてあるみたいに付かず離れずで、それはこの七日間で俺達が身につけた丁度良い距離だった。
公園の外れ、大きな木の陰で前方には大きな池。管理小屋ではボートが貸し出されていて、今も二艘が熱い夏の日差しの中、木の陰から陰に滑るように水面に浮かんでいる。とてもいい位置なのに、何故か人がいない。此処は以前から俺と、俺に此処を教えた進藤ぐらいしか立ち寄らない不思議な場所だった。
鳥の鳴き声。空を見上げれば葉陰を掠める眩しい太陽。
──驚くぐらいに“普通”の世界にいる。俺もミラも普通ではないのに。
ミラはボートと、その上の男女を見ていた。目を細めて、何か遠く、届かないものを見るみたいに。その横顔が何処か儚くて、俺は声を掛ける。
「……なあ」
顔に笑みと疑問詞を浮かべてミラは俺を振り返った。考え無しに行動するのは己の首を絞めるだけだ。そんなことをしていると、何を言えばいいのだろう、とか、どうしようもない事を悩む羽目になる。
「ええと……ミラってさ、何歳なんだ?」
なんとなく思いついた疑問を口にする。彼女は背が高くて綺麗な顔立ちの割に感情表現が子供っぽくて純粋な印象があって、七日間も一緒にいたのに、俺には彼女の年齢が全然掴めなかった。
「……数えで十四ですね」
考えてみれば失礼な事を聞いたかな、と思った途端に、答えが返ってきた。数えで十四、ということは。
──……年下かよ。
心中で呻く。年下の女の子に十センチ以上差を付けられているのはさすがにショックだ。
「岩魚さんは何歳なんですか?」
にこにこ笑って聞き返してくる。俺はちょっと考えて、
「……十七」
と嘘を吐いてみた。すると、
「わあ、思ってた通りです」
予想外の返答が返ってきた。しかもあっさり信じ込んでいるらしく、
「十四と十七でもこんなに違うんだ。やっぱり経験って大事なんですね」
とか良く判らない納得をしている。ちょっと笑ってしまった。きょとんとしている彼女に、
「……ごめん、嘘だ。俺も十四だよ。数えじゃないけど」
片手を顔の前に立てる軽い謝罪と共に訂正。信じてしまうとは思っていなかった。
「え、そうなんですか?」
心底意外そうな声。
「ぴったり合ってると思ったのに」
残念そうな声ではないのが救いかもしれない。──何の救いになるかさっぱりわからないが。
「……嘘は、嫌ですよ」
ふと聞こえた彼女の呟きが、やけに憂いに沈んでいるように聞こえて、俺ははっと顔を上げる。
「……どうしたんだ?」
小声で聞いたけれど、彼女は困ったみたいな笑顔になっていて、何も言わずに頭を振るだけ。
無言のまま、ベンチを立って数歩、手が届かないぐらいの位置まで進んでくるりと半回転。さっき買ったばかりの青地に白と黄色の線が入ったタータンチェックのフルスカートがふわりと舞い上がって、白い臑と靴下が一瞬覗き、すぐにふわりと隠れる。
「こんなにいいお洋服を買って戴いて、有り難う御座います」
彼女はぺこりと頭を下げる。俺は、
「……そんな事、気にしないでいいよ」
──義務感じゃなくて、興味でやっていることだ。頭を下げられるほどの事をしているわけではない。けれど、人に感謝をするという行為は、行為者にとっても大事なことだと。それは知っているから拒否はしない。
「……貴方に助けて貰えて、嬉しかったです。いいえ、今も嬉しい。こんなに貴方は優しい人だから」
彼女は続けながら、一歩、俺に近付く。
「優しいんじゃなくて……独善的なだけだ。ミラを助けることは俺にとって、」
……なんだろう。何になるんだろう。頭の中ですらまとまっていないことを、口に出すことは失敗だ。口籠もった俺に彼女は微笑む。
「独善でも、貴方は私を助けてくれたんですから」
俺は何も言えずに彼女を見る。明るい夏の日差し。逆光の中で彼女の白い肌はきらきらと、まるで上等の絹みたいに光って見えた──それは、水面の反射が被っただけかもしれないけれど。
「貴方には話さなければいけないと、思ったんです」
彼女の表情がきゅっと引き締まる。それは決意という名を持つ表情。数瞬の沈黙の後、彼女は口を開き、
「……私は──」
その瞬間から──
俺は背筋がぎちりと鳴る音を聞く。
世界が
ミラの決意が驚きに侵され。
銀色の残光が目尻から飛び込んで。
ずどん、と耳朶を打つ破壊音とともに。
白い
俺は地面を蹴り、ミラに向かって跳ぶ。
──一秒の間に世界は変容した。
どん、と背中に衝撃。ミラを抱えて俺は日向に飛び込んだ。急激な採光が瞳孔を収縮させる。そのまま数メートル、公園の短い草原をごろごろと転がった。
そして俺とミラは同時に跳ね起きる。
状況が一変し、空気が入れ替わり、
七日前、女が襲いかかってきた時とは違う。あれは力試しだった。だが、今の衝撃は…… これは
つまり、この状況は
ずずん、と低く響く音を立てて、木が倒れた。ベンチの後ろにあった、高さ四、五メートル程度の木。先端を俺とミラの方に向けて横たわっているそれは、最早木ではなく倒木だった。
その青々と茂った葉を鳴らし、一人の男が現れる。死装束のような白に、赤い染料で散らした花模様の着物を着流して、左手に黒い鞘の鍔のない太刀を握った男。肌の色は不健康に白く、そのくせ懐から覗く右手はごつごつした剣胝がはっきりと見て取れる。顔立ちは細く、一種女性的な造作だが、頬に浮かべた獣じみた笑みがどうしようもなく雄の匂いを放っている。
男は唇と尖らせてひゅう、と息を吐く。口笛を吹こうとしたようだが上手く吹けていない。その唇はまるで紅でも引いているかのように赤く、血を啜りでもしたかのような錯覚すら起こさせる。
「あんだけ見事に跳ぶたぁ思わなかったぜ」
にたり、と。鼠を見つけた猫のような笑顔で男は笑う。俺はミラを背後に庇い、一歩前に踏み出した。無言のまま、左の爪先を敵に向け、右足を引き、左手を突き出して、右手を腰の横で握る。幾度も繰り返した臨戦の構え。切り替わった脳に思考が追いついて、俺は戦闘に
背後に庇ったミラが、ごくりと唾を飲んだ。
「……貴方は、何者ですか。
何故、こんな事をするのです」
ふるふると四肢が震えている。いや、きっと全身が震えているだろう。今は彼女を宥めることも出来ない。
「……俺の名前、仕事、やろうとしていること。
どれか一つなら応えてやってもいいぜ」
けけけ、と趣味が悪い笑い声を上げながら男は言う。やろうとしていることなんか分かり切っている。個人の名前なんか聞いても仕方がない。聞くべき事はたった一つだ。
「……仕事、って、どういうことですか」
ミラが聞くと、男はけけけ、とまた笑う。
「この国にはよぉ、天皇っているよなぁ? あのお飾りのアレだ。アレ。
……だが、天皇にも仕事がある。……おっと、公務がどうのとかそういう事じゃねえぜ。天皇という立場がある本当の理由。国民の象徴なんかじゃねえ本当の天皇の仕事だ……」
思わせぶりに男は言葉を切る。俺達は何も言わない。言うべき言葉がない。男は笑って、一つぱん、と手を叩き、
「冷静だな、少年少女。わかったわかった、良く聞けよ。
“国難即ち仇為す者を狩り立て殺す事”。
それがこの日本という国の支配者、即ち護り手である天皇の本当の仕事だ」
男はそう言って、懐手にした右腕でぐい、と着物を押しのけて片肌を脱ぐ。右の胸と肩、そのしなやかで無駄のない筋肉が陽光の下に露わになる。そこで男は顔をきりりと、まるで歌舞伎役者のように引き締め、かっと目を見開いて、
「天より下り日ノ本に仇を為す墜ちた星、列びに星を庇い立てする能持つ男
斬りて祓う為に推して参るは
ずん、と、空気が冷たくなる(・・・・・)。男──探湯荒野王がその右手を太刀の束にひたりと合わせた途端、濃密過ぎる殺気が周囲の温度をねじ伏せた。
「──名前はおまけしてやるぜ」
と、唐突に男は笑う。わざとらしいほど引き締まった表情は途端に緩み、嫌らしい笑みが顔に浮かぶ。だが、その殺気は周囲を圧倒したまま、じわじわと俺の身体すら浸食し始めていた。
「…………」
ぐびり、と喉が鳴る。だが口中は渇き切って唾は枯れてしまったかのようだ。
間違いない。こいつは
そして殺すまでの過程が、その抵抗が、その情動が、この男、探湯荒野王にとって何物にも代え難い
嫌気が差すほど判る。その目を見れば。
ぎりり、と。
軋み音を立てる程に奥歯を噛み締めて、身体を侵す殺気を押し除ける。濃密な殺意の中で、身体はまだ自由に動く。
──好きに殺されるほど、俺は弱くない。
けけけ、と探湯は笑う。
「そうこなくっちゃあ、いけねぇなぁ」
ごつごつした指先が太刀の束をゆるりと掴み。
そして太刀風が獣の如く荒れ狂った。
4th track "The difference in murderous intention" out...