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──夢はいつもどおりにけぶるような霧雨から始まる。
さらさらと葉を打ち鳴らし、遙か遠い空から舞い降りる透明な雫は、霧のように立ち込めて視界を白く閉ざしていた。
さくさくと下繁えを踏む小さな足。視点位置はその上、あまり高くはない。
だから
何処までも続く草原。走っていく僕の身体はどうしたって冷えていって、だから早く暖まりたいと、それだけを望んでいる。
「……お母さん、」
口から漏れたのはそんな呟き。あの頃の僕にとって、暖かいものといったらお母さんのことだった。
「……お父さん、」
口から漏れたのはそんな呟き。あの頃の僕にとって、冷たい雨から護ってくれるのはお父さんだった。
「……────」
唐突に走るノイズ。
ざりざりざりッ、とまるで紙ヤスリを擦り合わせたような耳障りな音が、僕の言葉を妨害した。
口だけが水槽の中の金魚みたいにぱくぱくと動いて、何かを喋っているのだけはわかった。
だが、何を言っているのか、わからない。自分の唇の動きは読めず、夢に震える喉はない。だから僕は自分が何を言ったのか、わからない。
すぐにノイズは途絶えて、またさらさらと降りしきる雨と、さくさくと下繁えを踏む音。
僕は走っていく。
ふと、立ち止まる。
四方は霧雨にけぶり、すぐ先までしか見渡せない。
さらさら、さらさら。何時までも続く霧雨は僕の聴覚を侵していく。
さくり、と踏んだ足下の草、それすら確かな位置がつかめない。──いや、夢の中には足下ですら確かな位置など有り得ないのか。
もう走りたくない、と振り返った目に、霧雨の向こう、遠く暖かい光が見えた。
冷たい身体を動かして歩き出す。
彼処には、きっとお父さんとお母さんがいる。
そう思った。
さくさくと下繁えを踏む音。霧雨は降り続けているのにさらさらという音はもう聞こえない。
身体は冷たかった。でもこれ以上冷えていかない。
僕は暖かな光に向かって歩いていく。
その暗い影に気付いたのは、歩き始めてからかなり経ってからだった。
夢の中の時間など確かではないのだから、すぐだったのかもしれない。ともかく、僕にとっては一時間ぐらい歩いたと思ってからのことだった。
まっすぐに光に向かって歩いていく僕の視界の端、左右からゆっくりと暗い影が近づいてくる。ゆらりゆらりと揺れるような動きのそれは、自分よりも大きく、不安を煽る。
怖くなって走り始めた。捕まったら大変なことになる、そんな不安で頭が一杯になっていく。
何がどうなるとかそういうことではなくて、思い出したくもないようなことをされる、と。なんとなく理解していた。
重い身体を引きずって走り始める。もう走りたくないと思ったのに、恐ろしくなると足が勝手に走り出す。
ともかく、あの明かりに辿り着きたい。怖い。恐ろしい。辿り着けなければ──
──何をされるのだろう。
僕はそれを知っている。だが、思い出したくなかった。
僕は走る。さくさくと下繁えを踏み、さらさらとなる霧雨に身を切られながら、走る。
霧雨は肌を切るようにぴしりぴしりと打ち付けてきた。
時折背後を振り返ると、二つの暗い影はゆらりゆらりと揺れながら、しかし走る僕と変わらない速度で追いかけてくる。
怖くなって足を速めても距離は変わることなく、むしろ段々と詰まっていくような気がした。
光はまだ遠く届かない。走り始めてからずっと遠いまま、同じように光っているように見える。
それでも、僕は走る。まっすぐに光に向かって走る。
そして唐突に視界が開けた。
だん、と音を立てて降ろした僕の足は、台所の
ガス台の上にはしゅんしゅんと鳴って湯気を吹き上げるやかんと、くつくつと鳴る赤い大きな鍋。お母さんが実家から持ってきてずっと使っていた赤いホーロー鍋。
中心で部屋を照らす白いランプカバーの下には暖かな光を放つ電球。蛍光灯の光は暖かくないといってお父さんが嫌っていた。
此処は、五年前の僕の家。まだ一人になる前の、家族と住んでいた家だ。
テーブルの向こう、子供用の高い椅子の上に、子供が座っている。誰だか判らない。
まるで黒いマジックで塗りつぶされたみたいに、黒いギザギザの線で覆い隠されているからだ。
机の上に置かれた絵本──これも黒く塗りつぶされている──から顔を上げて、その子は僕を見た。
その黒い瞳、僕によく似た黒い瞳だけが、ギザギザの向こうから僕を見据えている。
突然その目がにこりと、笑顔の形に歪んだ。ギザギザに覆い隠されて見えないけれど、確かにその顔が笑っている。
九割までが真っ黒にされたその顔で、その子は僕を見て笑い、口を開く。
──(ざりざりざりざりざりざり)……
しかし、その声はノイズにしか聞こえなかった。真っ黒なギザギザが口の中にまで入り込んで、声すらも歪めてしまった。
僕は何も言えず立ち尽くしている。
──(ざりざりざりざり)ぃ……ん?
その子は首を傾げて僕を見る。その小さな声に混じっているのは間違いなく疑問。
けれど僕はその言葉に応えることが出来ない。
……だって僕は、その子の言葉がわからない。
唐突に、肩に大きな手が載った。視線を手に沿って持ち上げていくと、其処に大きな拳があった。
がつん、と言う音。視界がぶれる。
痛みはない。けれど身体は空中に浮いていた。ぐにゃりとねじれていくような感覚。
がしゃあん、盛大に音を立ててテーブルに激突する。載っていた白いお皿が落ちて、欠片になって飛び散った。
僕の視界は床に向いている。だから僕は俯いていると判った。
頬が熱いような気がする。触るとぼこりと膨れていた。唇の端が切れている。
下向きの視界に灰色の爪先。上から手が伸びてきて、視界が勝手に持ち上がっていく。
突然ぐん、と世界が下に置いていかれた──いや身体が持ち上げられた。
ガスコンロの上にはやかんも鍋もない。白いランプカバーは埃だらけだ。電球もついていない。世界は灰色で、陰鬱。
色と言えば、僕の唇の端から落ちた血の一滴が、ただ赤い。
逸らしていた視線をまっすぐ前に向ける。
僕は髪を掴まれて吊り上げられている。
影が、そこにいた。草原で僕を追いかけてきた暗い影。
それはお父さんだった。その目は暗い憤怒に猛り、赤黒い炎を燃やして僕を見据えている。
かくかくと足が震える。足の付け根がじわりと暖かくなった。ぼたぼたと水が滴る音。
「お父さん」は叫んだ。
──(ざりざりざりざりざりざり)!!
その声すらも掻き消すノイズは、僕の聴覚を怒濤のように埋め尽くす。ざりざりという音が暖かな記憶を駆逐する。
お父さんの肩の向こうにお母さんが見える。暗い廊下に座り込んで、壁を見ていた。たまに頬を歪める。笑っている。
お父さんはお母さんを振り返って、とても悲しそうな顔をした。
僕は、ごめんなさい、と呟く。
お父さんはノイズだらけの声でまた何かを叫んで、僕の顔を殴った。何発も、何発も。
痛みは何故かなかった。
何故だろう、僕は「僕が悪いのだ」と、わかっていた。
視界ががくがくと揺れて、何もわからなくなる。
揺れる視界の隅、倒れたテーブルの向こう側。高い椅子に座った黒くギザギザに塗りつぶされた子供が、僕を見て微笑んだ。
──……ぃ……ん。
ノイズはなく、ただ小さな声で言う。
その声が聞こえた時、俺の口から小さく声が漏れ出した。
「あ……」
その声は小さいくせにざりざりと鳴るノイズを打ち消して世界に響く。
「ああ……」
がくんがくん、と視界が揺れ、額が何か爆発したみたいに熱くなった。
「あああああああああああああああああッッ!!」
喉の奥から込み上げる声を抑えきれずに咆えた瞬間、世界は僕の頭からぐしゃぐしゃに砕け散って、滅茶苦茶になった──
第三幕「虚構しかない部屋」
2014,08/13 04:49
どくん、と身体を震わせる鼓動。同時に
心臓が物凄い勢いで血を送り出して、身体が熱い。ぎゅっと握った手と首筋は汗で冷たい。
視界一杯に見えるのは天井。蛍光灯はついておらず、ただ薄暗い。
そっと頬に触れる。腫れてはいないし、血もついていない。当たり前だ、あれは夢なのだから。
此処三年間ずっと続く悪い夢。始めは毎日、今は三日に一度。どんな寒い時期でも汗だくになる長い夢。
未だに慣れることはない。いや、一生慣れるなんて出来ないだろう。あの光景に感じるのが恐怖でも、嫌悪でもなく、罪悪だから。
「……ふぅ」
頬に当てた手を額にずらして、小さく溜息を吐く。起きて着替えなければ気持ち悪い。けれど起きあがる気になれなかった。あの夢を見た後は、全身が重くて動きづらいような気がする。
眼が冷めた後の数分間、昔殴られた頬や腹が痛い時もある。
毎日の事なのでもう慣れているが、当然異常なので医者にも診てもらったこともある。肌が真っ黒に焼けて筋骨粒々の、まるで工事現場のおっさんみたいなこの界隈で一番の「名医」は、俺の身体を十回調べて、結局何も異常を見つけられなかった。
恐らくこれは心因性の障害なのだろう、と、俺も納得している。
そもそも、痛みというものは錯覚できてしまうものだ。人間はとかくショックに弱い。
普段世界が安全で、何かあっても自分だけは大丈夫だ、と。そんな風に思って生きている奴らは特に。
──その思考自体が錯覚であることに気付かないのは、現実を認識することが「痛み」だからなんだろうか?
そんなとりとめもない思考に耽っていると、
「……ahの…… 大丈en……ですか?」
突然、鈴を鳴らしたような小さな声と共に、俺の視界を上下逆さまの見知らぬ顔が占拠した。
「わあっ!?」
驚いて飛び起きる。視界は上半身の動きに合わせてぐんと上がっていき、当然目の前にはその誰かの顔があるわけだから、
──しまった。
と、思った時には当然既に遅い。意識的には数瞬、物理的には一瞬で、顔と顔が近づいていく。
咄嗟に瞑った目の上、額と額がごちん、と重たい音を立てて激突し、
「……いってェ!」
「aie!」
神経を電流が走り抜け、脳に辿り着いて反射的に痛みを示す声が喉から飛び出した。
額から始まった刺激が脳まで何往復も神経を走り回って、じんじんと響いている。
「……いきなり顔出したら、危ないだろ……」
「ごめんilさい……」
呟くと答えが返ってきた。喋っている途中で発言が突然聞き覚えがない言葉に切り替わるのが酷く奇妙だ。
──そもそも、此奴は誰だ。
根本的な疑問にはたと思い当たる。考えてみれば自分の部屋に見知らぬ誰かがいるなんて経験は、ない。
「……そもそも、お前誰だ。なんで俺の部屋にいる」
顔を向けて尋ねる。しかし俺はどうしようもないことに気が付いてすぐに顔を背けた。
「……ちゃんと隠せよ」
そこにいる少女はほとんど裸同然だった。タオルケットを巻き付けているが、ぶつかった衝撃で外れてしまったようで、片方の胸がはみ出しかけている。
俺の声に気付いてふと身体を見下ろした少女は急いで胸元を隠す。頬が薄紅色に染まっていた。
闇の中でも白々と映えるその肌を見た瞬間、昨晩のことをようやく思い出した。
コンビニの前で女が去った後、すぐに俺は裏路地を通って家に帰り着いた。
そして着せていた湿ったシャツを脱がせて彼女を布団に寝かせ、俺は湿ったカーゴパンツだけ着替えてタオルケットを頭から被って床に寝ころがったら、自覚以上に疲れていたのか、その途端にぐっすり寝込んでしまったのだ。
「ああ、そうか…… なんで俺の部屋にいるのかはいいや。わかった。
ともかくなんか服着てくれ、服。俺のを好きに着ていいから」
投げつけるように言って背を向け、目を瞑る。頬が熱い。
昨日の夜は動転していて──流星を見に行ったら空から女の子が墜ちてくるなんて誰も思わない──意識の外に飛ばしていたが、その白い肌も、華奢な身体も、綺麗な髪も、ふっくらした唇も、俺には全然馴染みがないものだった。
「……わlaりまpriた」
そしてその唇から出る言葉は、半分が馴染みある日本語で、その半分は聞き慣れない、知らない言葉だった。ノイズが混じるように言葉が混線したような、何故だか凄く不快な感覚……阻害されているような、一人きりのような。その癖、声は一流の楽器みたいにさらりと世界を振動させて、耳に馴染む。
苛立っているのか浮ついているのか。自分の状態が掴めない俺の背後で、彼女は布の擦れ合う音を立てて服を探っている。
照明はついていない。電柱に付いている蛍光灯の光だけが窓から差し込んで部屋をうっすらと照らしている。薄目を開けて窓を見やれば外はまだ暗く、星が出ている。時計を見ると、時刻はまだ午前四時五十二分。早く寝た分、相応に早く目覚めてしまったらしい。
心臓がとくとくと鳴っている。
部屋は、何故だろうか、とても静かだ。この鼓動が相手に聞こえてしまうのではないかと心配になるぐらいに。他に聞こえるのは衣擦れの音。背後で誰かが服を着替えているという状況はこの上なく刺激的で、どうしようもない気分になる。
「あの……」
小さな声に、少女の方に向き直った。
胸にワンポイントだけ入った白いティーシャツと黒のカーゴパンツ。俺の身体が並より多少太いのもあるが、細身の少女が着るとかなりだぶだぶした印象がある。裾が持ち上がって臑が見えていたが、まぁサイズがあっていないのだから仕方がない。それよりも背丈に十センチ以上の差があってもウェストのサイズがどうにかなるという少女の細さが驚きだった。
そしてその美しい肢体が隠れた途端、それ以上に美しい容貌が主張を始めた。描いたように細く通った眉。高すぎず、低すぎず、滑らかな曲線を描く鼻梁。ふわりと持ち上がった睫毛。切れ長なのに攻撃的な印象を与えない優しい瞳。上下反対の卵のように丸く、しかしシャープなラインを描いた頬。今まで見たこともないぐらい整った、まるで作り物のように綺麗な顔。しかし、そこには確かに生命があり、柔らかく感情が息づいている。
俺は思わず彼女に見惚れてしまった。
その視線に、彼女は眉根を寄せた少し困ったような顔で、少しだけ頬を赤く染めて俺を見返している。ふと見下ろすと、俺も上半身は裸のままだ。手を伸ばして近くにあった黒いティーシャツをひっ掴み、着込む。
何故か、頬が熱い。
「……んで、改めて聞くぞ」
シャツを着込む時視線が外れ、ようやく口に出せた言葉は少し尖っていた。そんなつもりはなかったのだが。
「……お前、何者だ」
言いながら、「何者」とは曖昧な言葉だな、と思った。
勿論尋常な答えを期待してたわけじゃない。空から落ちてきたような少女にそんなもの期待する方が間違っている。
「私は……」
彼女は口ごもって視線を逸らした。軽く握った手が口元に添えられている。
その指は細く、白魚のような手というのはこういう手を言うのだな、と思った。
「……言えないならいい」
俺の言葉に、え、と声を上げて少女は逸らしていた視線を上げる。
「別に答えたくないことを無理に聞く気はない。どうせ尋常な答えじゃないんだろ?
もうちょっと落ち着いてからにしよう」
状況を考えれば格別に異常であることは間違いない。けれど、言葉に反して俺は存外に落ち着いていた。俺はこの少女が気になって仕方がないのだ、と自覚している。しかしそれは、空から落ちてくるような異常な状況でも、喋れない事実でも、見惚れるほどの容貌でも、美しい肢体でも、その全てが要因ではなく。
あの川の中で俺を見上げた深く青い瞳と呟いた言葉が、俺の心を束縛している。
「……どっから来たんだ? さっきからたまに発音が変になるのは、どっかの訛りなのか?」
数秒の沈黙を誤魔化すみたいに、続け様に質問する。棘のある口調になっているような気がするが、他にしゃべり方が考えつかない。
「……変vo聞est-ますか?」
聞き返してくる言葉も何か不自然に歪んでいる。俺は素直に頷き返した。すると彼女は自分の喉を左手の人差し指と親指で軽く挟み、右手を胸に当てて軽く瞼を伏せる。その手の先に一瞬、ぽうっ、と青白い光が灯った。
「……これで、どうですか」
次に彼女の口が口を開いて紡ぎだした言葉は、先ほどまでの不自然な歪みがなくなって、滑らかな日本語になっていた。俺は眼を二三度瞬いたが、その時にはもうとっくに光は消えている。
「大丈夫だと、思うんですけれど」
俺が、ああ、と頷き返すと、彼女はよかった、と両手を合わせて小さく微笑んだ。
「……これから、行くところはあるのか? 帰るところは?」
言ってから自分の言葉に疑念が沸いた。そんなことを聞いてどうするつもりなんだ、俺は。
彼女はまた困ったように眉根を寄せて、
「……ない、です」
と、だけ言った。俯いた顔、一瞬見えた目尻には、光るものが零れていたように思う。
俺は溜息を吐いて、窓の外を見た。夏の早朝、少しずつ白み始めた空。街灯にたかる小さな虫はもういない。ただ一匹、こんな時間、こんな場所には珍しく、モンシロチョウがはたはたと飛んでいた。それは白み始めた紺色の空に、ふわりと溶け込むように浮いている。
「……じゃあ、此処にいろよ」
そのたった一匹の蝶々から眼を離せないまま、俺は呟いていた。口に出してしまえば、あっさりと。空気は震動して波は伝わっていく。
「え……」
ただ声が漏れただけのような、単純な声が帰ってくる。俺は蝶々に眼を向けたままで繰り返した。
「他に行くとこないなら、みつかるまで此処にいろよ」
蝶々ははたはたと東の空に飛んでいく。だんだんと白んでいく空に、さらさらと粉々になって溶けていくみたいに消えていく。そして蝶々は視界から外れ、俺は漸く少女に顔を向けた。
「……いいんですか?」
そう尋ねてくる顔に、そっと差し込んでくる冷たい光が当たっている。街灯はまだ消えない。唇には光。目元には闇。しかしその中に宿る光は闇の中でも曇ることはなく、まるで宝石みたいにきらりと輝いて見えた。
「でっかい猫、拾ったみたいなもんだろ?」
俺はその青い瞳に、少しぎこちなく笑ってみせる。そんな言葉に少女は小さく微笑んで、ぺこりと頭を下げた。
「……ああ、そう言えばさ」
と、突然言った言葉に、彼女は顔を上げて小首を傾げる。
「……名前、教えてくれるか。それともこれも教えられないか」
少女は、いえ、と頭を振って、上目遣いに俺を見ながら、
「……ミラベル・ビリーヴァ、です」
と名乗った。
ミラベル、と舌の上で転がしてみる。いつもなら人の名前を聞けば偽名だとかなんだとか考えるのだが、この名前はそう感じなかった。それは、
「イメージ通りの名前だな」
つまり、
──とても似合っている。
と、思ったから。
しかし、言おうと思ったら顔が急に熱くなる。人を誉めるのは慣れてない。
「……んじゃ、ミラ、でいいか?」
誤魔化すみたいに早口で聞くと、彼女はこくりと頷いて、
「……あなたのお名前も、教えてください」
と、聞き返してきた。俺は後ろ頭を掻いて、
「ああ、うん。悪い、忘れてた」
言い訳みたいに言う。何故だかやけに緊張していた。ちょっとした喧嘩でもやらかす前みたいに、息が変に乱れている。深呼吸というほどじゃないが、一回息を吸って、吐き、舌で唇を少し湿らせて。
そうしてやっと、口を開いた。
「とりうみ、いわな。
鳥海岩魚だ」
2014,08/13 05:03
「鳥海岩魚……ね。
なんぞかったそーな名前じゃねぇの」
けけけ、と漫画のような音で笑いを放ち、男が一人、闇の中で身じろぎをした。
此処は薄暗い路地裏。時刻は午前六時過ぎ。そろそろ空も白んで、日が昇ってくる頃合いだ。
男は壁に寄りかかり影に溶け込んでいて、その容姿は判別し難い。左の耳には白いイアフォンがはまっており、そのコードは手に握った黒く小さな機械に繋がっている。その機械には細い銀色のアンテナが立っており、通信状態を示すランプは緑色に点灯していた。
と、男の隣、空が白んだ時刻でもまだなお暗い路地裏から、するりと女が現れた。ミディアムロングの髪がふわりと揺れる。
「聞こえてるノ?
どんなカンジ?」
そう聞く女の声はやけに良く響いて、男は少し眉を顰めて、ぴっと指を唇の前に立てた。女はぺろりと舌を出して、
「ごめんごめん」
と小さく言うと、自分も白いイアフォンを取り出して男の持つ機械に差し込む。
「……んー、なんか普通ネェ」
数秒聞いてがっかりしたように言う女に男は、
「遅ぇんだよ。
いいとこはちょいと前に終わっちまった」
と返して、また、けけけ、と笑った。
「ちェー、失敗したナー」
女は言って小石を蹴る。ころころと転がるはずのそれは物凄い勢いで電柱にぶつかり、ぱちん、と音を立てて砕け散った。それを見てからサングラスを外す。
男が持っている機械は傍受機。そして電波の発信元は、鳥海岩魚の髪の中に紛れ込んでいる盗聴器である。
「あいつが寝る前にシャワー浴びなくてよかったなぁ、おい」
男は女をからかうようににたりとした笑いを浮かべて言う。女は唇を噛んで、
「しょうがないでショ、咄嗟に付けられる場所なんて他になかったんだし」
呻くように言った。男は、まぁな、と言って、また、けけけ、と笑う。
「
女が眉根を寄せて言うと、男──探湯はにたりと笑い、
「おめぇがその変な発音どうにかしたら考えるっつったろ、生玉(いくたま)」
ざり、とアスファルトを踏み締めて、一歩壁から離れる。かちん、と音を立てて生玉のイアフォンコードが機械から抜けた。薄明かりの中浮かび上がるのは、真白い空に散り流れる赤い赤い花びら。
探湯は長い髪を後ろ頭で一つに纏めて垂らし、足下は裸足に雪駄。そして着流した白装束には、赤い染料で舞い散る花びらの群が描かれていた。背丈は高く百九十センチ近いが、身体は引き締まって余分な肉がほとんどついていない。目鼻立ちは純和風のわりに彫りが深く出来ている。何故かその唇には真っ赤な紅が引かれていて、それがまるで女形のように艶めかしい印象を与えていた。左手に携えるはぬらりと光る黒漆塗りの鞘に納められた太刀。反りが強く、腰刀をそのまま長寸にしたような印象を与える。鍔は付けられておらず、束頭は大きく張って丸みを帯びた束を持っていた。
口にくわえた長楊枝をぷっと吐き捨てると、コンクリート壁にすとん、と突き刺さる。
耳からイアフォンを外し、懐に機械を納めた。
徐々に昇ってきた陽光が女──生玉に当たり、ゆらりと影から浮き上がる。タイトスカートのスーツに黒いサングラス。足下はハイヒール──ではなく、ローヒールのパンプスだ。ウェーブがかった茶色い髪は染めているらしく、眉は黒い。鼻筋はしっかり通っているがあまり高くない。むしろ低い方だろう。唇は分厚くぽってりとしていて、眼は若干垂れ気味。目尻の近くに泣きぼくろがあり、全体に気怠げな印象を与えている。
彼女は腹を軽くさする。其処は約九時間前、鳥海岩魚によって痛烈な打撃を受けた処だ。
外れたイアフォンを面倒臭げに外してジャケットの胸ポケットに押し込んで、
「何ヨ……やンの?」
気怠げな半眼で、生玉は探湯を睨み付ける。彼はまた、けけけ、と笑い、
「やってみるかァ? なかなか楽しそうじゃねえかよ。あァ?」
くっと唇の端を持ち上げて、鯉口を切る。陽光を鉄がぎらりと
「……ったァく、バカでしょう、あんた。
こンなトコでやり合う気?」
生玉は気怠げな半眼はそのままに、じゃり、とアスファルトを踏む。パンプスの爪先は探湯をぴたりと差している。両者間の距離、約三メートル。互いに、攻め寄れば間違いなく相手の射程の内に入る距離。二人の視線がぴたりと合う。その表情はまったく変わらず、片や緩んだにやけ顔、かたや怠そうな半眼のまま──
ぎゃん!
唐突に、乾いた空気を引き裂いて硬質な音が響いた。決して大きい音ではない。しかし確実に存在を主張する、痛烈な音。
探湯の刀は横薙ぎに生玉の人中を。
生玉の拳は下方からまっすぐに探湯の人中を。
それぞれに目指して、まっすぐに突き進み、結果、力と力は中空で、どちらも遜色ない強さを持って激突した。
アッパーブローで振り上げた拳は、薙ぎ払った刃をぴたりと受け止め、しかし傷一つない。鋼と鋼の擦れ合うような、ぎりり、と固い擦過音。
「おめぇ……固ぇなおい」
呟く探湯の声に、しかし力んだ様子は全くない。普通なら両手で振るう太刀を片手で振るい、競り合っているというのに、その表情はにやついたままだ。
「あンたも……器用なだけじゃないのネ」
呟く生玉の声にも、力んだ様子は全くない。鎬とは言え刃に拳を押し当てているというのに、その表情はまだ気怠げに半眼だ。唐突に両者は飛び退り、距離を空けた。ざりり、とアスファルトが削れる音を立てる。
「…………」
「…………」
いつの間にか体勢は低く、一般的に言う構えではないが、互いに一瞬で攻撃に移れる姿勢に変わっている。
そのままの姿勢で、数秒。
おもむろに生玉は身を起こし、拳を下げた。右手で左の肩を掴み、
「あンたとヤり合うと、肩凝るのヨネ……空気が重イんだヨ」
うんざりだ、とばかりに言いながら首をくきくきと回す。探湯はいつの間にか太刀を鞘に納めていた。懐から取り出した長楊枝をくわえて、
「んじゃ、俺もおめぇも癖は直さねぇ、ってことで、いいよな」
また、けけけ、と笑う。生玉は呆れたように肩を竦めて、
「……勝手になさいナ」
と背中を路地の壁に押しつけた。その組んだ腕の間に、ぐい、と黒い機械が押し込まれる。
「……何ヨ」
半眼で睨む彼女に探湯は、
「いや、今日は止めとくからよ。
見張り、続けんだろ? 持ってろよ」
と言って、くるりと背を向ける。壁に寄りかかったまま生玉は、
「止めるって、んじゃ何時にすんのよ」
と呟く。
「今度な今度。
明日とか。明後日とか」
言い返しながら探湯は顔だけ振り返り、
「さっきので集中力切れた。
一眠りしねえと眠くてやってらんねえや」
にやにや笑いのままですたすたと歩き出した。
「……あ、そ」
半眼のまま、彼から視線を外してサングラスをかける。腕の間の機械を掴み、懐に突っ込んでイアフォンを繋いだ。そのままの姿勢で生玉は気配を消す。まるで路傍の石、通路の壁。背景に溶け込んで、まったく意識されない。それこそが彼女の身につけた技術──状況に応じて自在に使い分けることが可能な隠行法。並の人間には知覚することすら難しい。さらにそれを長時間維持し、移動することすら可能だ。
「おお、見えねえ見えねえ。よくやるもんだな、あいつも」
じゃりじゃりとアスファルトを踏み締め、二十メートルほども歩いてから探湯は生玉のいた処を振り返った。既に彼女は隠行に入り、その姿はこの距離まで離れれば彼にすら捉えきれない。彼はひゅぅ、と口笛を吹きながら日が昇り始めてもなお薄暗い路地裏を歩いていく。
「さて、誰から喰ってやろうかね……
今宵の虎徹は血に飢えておるぞ、ってやつか?」
けけけ、と笑いながら、左手に握った太刀の鯉口を切っては戻す仕草は軽々しく、まるで気に入りの玩具を扱うようにかちん、かちん、と鳴らす。その声は、その顔は、先ほどまでと変わらぬ調子であるものの、その奥に潜む意志は比べ物にならないほどに強烈な念を含んでいた。
……それは、邪悪。
……それは、害意。
そしてその心は今や、空から墜ちてきた少女と強い力を操る少年に向けられていた。
……それは即ち、殺意である──
3rd track "Full of lie" out...