2014,08/12 21:48
──私は光に包まれて暗い空を墜落していく。
強く心体を引き付ける重力という力。私にとって未経験のその力は、体だけではなく心にすら強力に作用し、大地に引きつける。引き擦られているのは三百年も昔に私たちから奪われた大地への渇望。私の中に遺伝する追放された者の記憶。
私はそれを意志と力で無理矢理ねじ伏せながら滑空していった。それでも安定という欲求に囚われた心は少しずつ大地に引き寄せられていき、それ故に私の描く軌道は放物線を描いて少しずつ大地に向かうベクトルを強くしていく。
私の心体を包む黄色い光はだんだんと弱くなっている。大気圏内に数多存在する風の元素が、まさに大気のように“
この辺りが限界か。
私は両の手足を大きく広げ、全身で元素の抵抗を受けた。急激に掛かった抵抗により進行速度はさらに減じて、私の身体は移動力と抵抗の均衡の間にぴたりと収まり、空中の一点に静止する。
右手を振り上げ、目の前の空間を薙ぎ払うように斜めに振り抜いた。“紗”が裂け、ぱりぱりと油紙を開くような音を立てて空間に穴が開く。目の前に押し寄せていた風の元素の抵抗が消え、私の心体は吐き出されるように
瞬間、全身を渺々と笛のようになる風が取り巻き、私の周囲の黄色い光がさらさらと砂細工を汲み上げるように私の身体を造り上げていく。そして組み上がった端から私の身体を冷たい大気がぴりぴりと痛めつけた。再生した身体に過去刻まれた傷がぴしりぴしりと上書きされて、意識に小さな刺激を与え続ける。
上空九十六フィート(注:一フィートは約〇.三メートル)。なだらかな下降ラインの終点近くで私の身体は中空の一点に忽然と実体化し、吹き付ける風の力でひとたび吹き上げられた後、重力──今度は物理的な──によって、約三十三フィート毎秒の等加速で墜落し始めた。
眼下に広がるは暗い森、しかし足下に見える土地は綺麗に開けて小さな広場のようになっている。
瞳を閉じ、両手を下腹の前で組んで左足はまっすぐ下に向け、右足はつま先を左の膝に付けて軽く曲げる。足の先に下半身の血液をすべて集めるような感覚を維持しながら、ダンスを踊るように軽く横回転。瞬間つま先から全身を黄色い
此処まで行う間に地上との距離はあと九フィート。しかし、私の身体は無様に大地に叩き伏せられる事はなく、地上三フィートで何もない上方に紐か何かでつり上げられたように、そして柔らかいマットに受け止められたように制動され、左のつま先からふわりと地面に着地した。
集中を足の先から全身の中心にあたる臍の下に移しながら、目を開き周囲を確認する。
その小さな広場は三十二フィート四方程度の広さで、一面を草に覆われていた。雨に降られた後なのか、草はしっとりと湿り所々では滴がひたりと落ちる。風は私の経験にないほどの強さで吹き付けていたが、知識の範囲ではこの程度なら「強い風」程度で「暴風」とは言わないはずだ。
私の白々しいぐらいに白い身体は中天に輝く月光を受けてさらに白々しい光を放っている。全身の傷さえなければ他者にも誇れるだろう美しさ。そして私はその傷一つ一つすら美しく感じ、惚れ惚れと眺めることが出来る。
今現在私の周囲を取り巻いている光景は、今まで知識にしかないことばかりだった。重力も、強い風も、生き続ける草木も、雨の滴も。それ故か、我知らず声が漏れる。
「ふふ、ふふふふふ…… あははははは……」
何とも言えず愉快な気分になって、草むらの中をくるくると回りながら歩いた。三十二フィートの空間は今この瞬間そのすべてがすべて私の世界だったから、楽しくてならなかった。広場の中心あたり、濡れた草むらに軽くつま先で叩いて確認してから勢いよく横たわる。その冷たさすら心地よい。
不意に月が暗雲に閉ざされ、周囲があっと言う間に闇に閉ざされる。
「……無粋ね」
上半身を起こしながら、声を投げる。前方十数フィート、先ほどまで何もなかった草むらを踏みつけて、黒い影が一つ、私を睥睨していた。
「一人きりの時間を邪魔するなんて」
また強い風が吹き、私の黒く短い髪が揺れる。影──黒い服を着た若い男は、私の言葉など気にしたそぶりもなく、懐に右手を入れて数枚の白い紙片を掴み出した。五本の指の間に各一枚、全部で四枚。そのすべてが赤黒い文字で文様を書き込まれ、深い紫色の攻撃的な外世光を放つ“
……やはり、術師か。
暗闇の中、符の放つ強烈な外世光が男の青白い顔を赤黒く彩っていた。その目元は、黒くフラットで光を反射しない眼鏡のようなもので隠され、表情が読めない。
男はただ一言言った。
「主命に因り、魔を狩る。
依存は認めず。抵抗せよ」
私は座ったまま、右手の人差し指を立て、わざと尖らせてある犬歯で噛む。その指先に腕全体の血液を集中するように念を込めると、血がとろとろと滲み出し、酸素に触れてしゅうしゅうと音を立てた。その血を吸い上げるように指先にふわりと黄色い光が浮き上がる。私の指先に灯った黄色い光と、男の持つ符の赤紫の光だけがぎらぎらと光る。
モノトーンの世界に月の青白い──しかし今の私には灰色にしか見えない光が落ちてきた。瞬間、
「……西方朱雀急急如律令ッ!」
叫びながら男はその右手を一度下方に垂らし、そこからすくうように振り上げて、強烈な力で符を投擲した。紙片はまるで投擲ナイフの如く鋭角に、抉るように、私に向かって飛ぶ。風を切る速度で飛んだ紙片は私と男の中間点で突如として紅い炎を吐き燃焼、その炎を喰らう紫炎の鳥を生み出した。
紫炎の鳥は紙片よりもさらに高速で、矢の如く直進する。私は集中を維持したまま、指先の光を目の前に空間に強く押しつけ、揺らすように動かした。
どどどどっ、と低い音を立てて振動が走り、紫炎がぶわっと吹き上げて一瞬視界を光が埋める。しかし私にその熱は届いていない。指先が描いた軌道から発生した椀状に窪んだ不可視の指向性対術防壁に激突し、紫炎の鳥はその身を易々と散らした。用済みの防壁は血の滲む指先で触れると溶けるように姿を消す。紫炎はその勢いのまま下草を焼くこともなく、すぐに空中に掻き消えた。まるで何事もなかったかのように。
「…………」
男は無言のまま新たな符を抜き出す。今度は両手で八枚、抜き出された符は先ほど以上の外世光を放っている。
私は立ち上がり、左手の人差し指を噛んだ。そして両の指先に集中を分割すると、上半身の血すべてを指先に集めるように念を込める。とろりとした赤黒い血が指先を伝って流れ出し、黄色い光がそれを包み込んだ。
青白い月光が私たちを白々しく染め上げていた。さらさらと草を鳴らして風が吹き抜け、木々もその葉を鳴らす。再び暗雲が月を覆い、青白い光は途絶えた。風がびょう、と強く吹き付ける。暗闇の中で赤い血と黄色い光は溶け混ざり、橙の螺旋を描いた後に、濃厚な赤黒い血の色に染まる。
「名前を名乗りなさい、礼儀知らず」
声をかけながらゆっくりと指を動かす。前面だけでなく、側面、そして後方。全周囲に赤黒い光の軌道がくっきりと残る。
「──
答えは存外あっさりと返ってきた。タカヤス。舌の上でその名前を転がす。私は少し楽しくなって、
「……イコ。
イコ・アンブロシオ」
と、名乗り返した。
名を知ることは即ち相手の命を握ること。故に、名を名乗り、殺す力を与えた上で、正面から相手を叩き潰す。それが術師同士の戦いにおける最上級の敬意だ。
「訂正するわ、貴方は礼儀知らずではないわね。
だから……全力で戦ってあげる」
暗雲が流れ、月が顔を出した。紫の光も赤黒い光も白い光に溶けて見えなくなる。
瞬間、合図もなく私たちは同時に動き、
そして、戦いが森を支配した。
第二幕「美しい誓約」
2014,08/12 21:32
──俺の腕の中にある、真っ白い肢体。強い光があたっているわけでもないのに、その身体は白く光って見える。
長い睫毛に乗った滴が、ふるり、と流れ落ちた。
くるくると巻いた長い金色の髪が濡れてまとわりついているので、身体のラインがはっきりと分かってしまう。
細い顎。華奢な手足。軽く閉じられた瞼の下にある大きな瞳。薄い桜色の唇。少し尖った高い鼻。丁寧に削ぎ落とされたかのように薄い肉付き。うっすらと浮き上がった骨。しかし病的ではなく女性的な、母性を主張するプロポーション。
その肢体は、確かに女性の──少女のものだった。
「──おい……」
大きな声が出ない。まるで熱が出た時みたいに身体の芯がやけに熱かった。何かくらくらと、熱病のような眩暈を感じる。
少女の華奢な肩を掴み、軽く揺さぶった。細い身体がかくんかくんと揺れて、彼女の長い睫毛がぴくりと動き、やがて瞼がゆっくりと開く。
数瞬の、間。
吸い込まれそうなほど深く透き通った瞳が、俺の目をまっすぐに見返していた。ぼんやりととろけたように、焦点は合っていない。
磨き込まれた大粒のサファイアのような、綺麗な海の底のような、人工物では決して出し得ない、濃厚にして玄妙な自然の蒼が、その瞳に宿っている。
身動きがとれない。その瞳に呪縛されてしまったかのように、指先一本動かすことが出来ない。
彼女の口元、桜の花びらのような唇がうっすらと開いて、とても小さな声が、俺の耳に届いた。
「────ぃ──ん……」
焦点が合わないままの少女の瞳、その端から、ぽろ、と零れ落ちたのは、涙だったのか、それとも唯の滴だったのか。それが分かる前に、再び少女は瞼を閉じた。
深い蒼が瞼の裏に隠れ、呪縛は解けて、俺はようやく息を吐いた。
何を答えることも出来ず、再び意識を失った少女を抱えて、俺は川の水面に映る自分を見る。揺れる川面に映るその顔は何処か強く動揺しているようにも見える。
……動揺? 何故?
自分の感情が理解出来ない。ここ数年来なかったことだ。
そういえば、見知らぬ少女を助けることに対する否定的な感情が何故かない。普段なら人助けなんて考えなかったはずだ。俺は自分一人生きていくので精一杯だし、人を助けている余力なんて持ち合わせていない。
それなのに何でこんなことをしているのか、自分でもさっぱりわからなかった。
少女を抱えて川から出る。俺と彼女の身体からひたりひたりと水滴がこぼれ落ちた。濡れた金色の髪が腕にぺったりと張り付いてきて少し気持ちが悪い。
けれど、親しくもない人間を抱えて運んでいる自分に対する違和感はそれ以上に強かった。「らしくない」とでも言えばいいだろうか。普段の俺からは考えつかない光景だ。
川から引き上げたはいいものの、このまま置いていくわけにもいかない。夏場とはいえ夜は結構寒いものだ。濡れたままでいたら風邪ではすまないだろう。
それに此処においていって変質者か何かに悪戯でもされたら、と思うと、胸クソが悪い。
美しいものが汚されることを考えるのは、酷く嫌なことだった。
……ああ、そうか。
俺は、彼女を美しいと思っているのだ。
そう思うと自分に対する違和感が急に薄くなった。美しいものを保護したいと思うのは、不自然なことではないのだろう。
濡れたシャツを脱いで強めに絞り、裸の少女の上半身に着せる。体格が違うから腰まで覆い隠すことは出来ないが、そのままでは人目についたら怪しまれそうだし、俺にとっても目の毒だ──上だけ隠しても十分に毒だが、出来るだけ目を逸らして見ないようにする。
一度背負って見たが、彼女の方が背が高く爪先を引きずってしまいそうになったので横抱きに抱え直して、その背丈のわりに軽い身体を持ち上げた。
意識を失った彼女の表情に苦しむような処はなく、まるで安らかに眠っているだけに見える。
その表情のない顔に、何かが被った。ふっ、と思考の中を
頭の中を駆け巡る鈍痛を、冷たくなった手でこめかみをぐいぐいと押して物理的な痛みを与えることで誤魔化そうとする。だが、ずくん、ずくんと鼓動の度に血流が脳に流れ込み、それに同調するように痛みも激しくなってきた。
「……なんだよ……、これ……ッ」
ただ「思い出す」だけで何故こんな苦痛が現れるのか、何を忘れているのか、そして自分はそれを思い出したくないのか。そのすべてが皆目わからないまま、呻く以外に何も出来ない数分間が過ぎていく。
まるで、昔もよくこんな風に誰かを抱えて運んでいたみたいな、そんな感覚が明確に甦ってきた。しかし、誰を抱えていたのか、それが全く判らない。手の中にあるのが違う存在だと判ってはいる。しかしその体温が、その重みが、その柔らかさが、何故か覚えのあるものとして俺の感覚に馴染んでくるのだ。
「ぅぅ……ぁア……ッ」
呻きながら、額から左手を離してぐっと握る。奥歯を噛み締めて膝を上から強く押すようにして、無理矢理立ち上がった。
ともかく、家に帰らなければ。
俺はふらつく身体と頭に響く鈍痛を出来る限り意識の外に放り出し、足だけに心を集中して、ゆっくりと歩き始めた。
2014,08/12
──石造りの部屋にいる。
広く、古く、しかし埃一つないよう念入りに清掃された其処は、壁に据え付けられた鉄の燭台に三本ずつ立てられた蝋燭で薄暗く照らし出されていた。
そのすべての構成要素──床、天井、壁、そして燭台を支える張り出した台座に至るまですべて──が、白い大理石で出来ている。それらはてらてらとまるで濡れているように光って蝋燭の暖かな炎を反射していた。
蝋燭の芯がじりじりと焼け、時たま溶けた蝋がぽたりと落ちる以外、その部屋には音がない。その部屋の主人は静寂を好むが故に。
壁には各面一つずつ“窓”がある。そこには何もないかのように程に透き通った分厚い強化ガラスが隙間を少しずつ含んで十層もはめ込まれ、その周囲は軟質耐熱素材と耐熱金属で補強されている。それは決して開くことはなく、ただ暗闇を見据えるだけの窓。途絶えることなくまっすぐにある星は、地上から見るそれよりもただの景観じみていて、まるで小さな灯火のようだ。
その窓の前に、一つの影があった。
この部屋の主人にして、金銀の糸で装飾が施された濃緑の豪奢なロングドレスをまとったその影は、手に持った黒檀の骨扇をざらりと広げ、口元をそっと覆い隠す。突然の雨垂れのようにしゃらしゃらと黒檀が擦れ合う音が部屋中に響き、すぐに掻き消えた。
その視線はまっすぐに窓の外を見据えていた。何かを憂いるような悲しげな瞳。しかしそこに宿る光は、決して信念を曲げない強さを主張している。
「……ベルンハルト」
少し厚い、ぽってりとした唇が小さく開いて名を呼ばわると、部屋の入り口近く、存在をほとんど掻き消したように無音、無動作で控えていたイヴニング・コート姿の初老の男が一歩進み出、小さく一礼した。
「……状況は、どうかしら」
女主人は答えることなく、ただ己の言葉だけを紡ぐ。対してベルンハルトは声にて答えることなく、ただ指を一本立てて、つい、と振った。その指先に一瞬明るい緑色の光が瞬いて、指先の描いた軌道に数百の文字がふわりと浮かび上がった。空中に浮いた文字の列は窓の表面に並び、整然と一つの長い文章を作り出す。
女主人はその文字列につい、と視線を走らせる。書かれているのは現在の状況、そしてこれからの道筋。
「……いいわ。このまま進行を維持して。
……それから、あの子たちには悪いことが何も伝わらないように、気を付けて」
鏡に映った初老の男は、銀色の頭を再び下げて、音もなく部屋から退出していった。
再び静寂と女だけが残された石造りの部屋の中。
女は窓から深く暗い闇を見つめる。その視線の先には青い光──地球。
彼女にとって、其処は故郷であり、同時に己の瞳では殆ど見たことがない異界であった。
そして、今。
その青い光の中に、彼女の愛する“娘”たちがいる──。
2014,08/12 21:48
「……結構、重いな……」
一人ごちる。視界の端を一筋の流星が落ちていった。
家まではあと数百メートル程度。人気のない処を選んで歩いて来たので時間がかかってしまった。
頭痛はだんだん引いて来て、今はふらつくほどではない。頭の芯のところがまだ熱を持っているような感じで時たま疼くが、少し我慢すれば気にならない程度だ。
腕の中の少女は小さく、しかし規則正しい安らかな寝息を立てている。
つま先や指先はさすがに冷たいが、俺の身体が触れている脇腹や腿のあたりはちゃんと体温を感じさせる。冷え切ってしまったということはなさそうだ。
しかし、力の抜けた身体は重い。完全に意志を失った死体の重さほどではないが、姿勢を維持しようとする筋肉の張りがなければ人はただの重りとさして変わらない。
腕の中の少女の体重は、恐らく四十キロ台後半といったところか。
背は低いがそこそこ筋肉質で平均より幾らか重いぐらいの俺よりはかなり軽いし、背丈を考えれば驚くほどの軽さなのだが、だからといって軽々と抱えて歩き回れるほどでもない。
腕に掛かる重さを堪えてゆっくりと路地裏を歩いていく。そういえば歩き始めてから一度も人とすれ違っていない。路地裏とは言え、この辺りは住宅地で通路として通って行く人もそこそこいたと思ったのだが……
と、唐突に狭い路地が途切れ、明るい道が目の前に広がった。車がすれ違える程度の広さで、すぐ側にコンビニエンス・ストアがあり、今ぐらいの時間帯でもある程度の人気がある道だ。
……参ったな。考えてみるとこのコンビニの前を通る以外に道がないことに気付いた。家のすぐ裏手まで通じている入り組んだ路地は、コンビニの向こうに十数メートルいったところに口を開けている。
遠回りすれば別の道もあるだろうが、正直いってこのままうろうろしていたら何処かで巡視の警官に捕まらないとも限らない。ほとんど裸の少女を抱えて動き回っている状態は、如何に俺が未成年者だとは言え──いや、むしろ未成年者だからこそ──どうしようもなくマイナスの印象しか与えないだろう。
通りに出る手前、影になった路地裏でしばし悩む。このままコンビニの前を通って路地まで走るか、引き返して遠回りをするか。どっちにしてもあまりいい賭ではないようだ。
「……しょうがねえよな、駆け抜けるか」
深夜のコンビニの前に貯まっている連中なら、どうとでもしてやるだけの自信はある。連中が警察に言うこともないだろう。問題は店員に見られた場合だが……、通報されたとしても、警察が来るまでに家に戻ることはそんなに難しいことではないはずだ。十数メートル走って路地裏に飛び込んでしまえば、後は家まで急ぐだけでいい。
……よし。
二回大きく吸って、一回大きく吐く。肺に出来る限り新鮮な空気を取り込んで、右足で二度強く地面を蹴った。大丈夫、走れる。
せぇ、の、で路地裏から踏み出し、走り始めた。
庭のある一戸建てと二階建ての安アパートの前を通り抜けてコンビニの前に差し掛かったその時、俺の目は不可解なものを捉える。
コンビニの前に、四人の男がいる。三人は十六、七の男。ストリート風のカジュアルな格好で、特に変な格好をしているわけではない。残りの一人はコンビニの店員らしく、コンビニのロゴの入ったオレンジ色のエプロンを付けている。
奇妙なのは、その四人がぐったりと横たわっていることだ。冷たいアスファルトの上に、まるでそのまま倒れ込んだようにぐにゃりと力無く横たわっている。店員らしき男なんかは出てくる途中で倒れたらしく、閉じてくる自動ドアに何度も挟まれていた。しかし起きる気配はない。
「ったく、なんなんだよ今夜は……なんか俺がやったっていうのか?」
走る足を止め、男達にゆっくりと歩み寄った。死んででもいたら胸クソが悪い。少女の足を離し、男の顔の前に手を翳すと確かに呼吸が感じられた。どうも眠っているだけらしい。
人騒がせな。何だか訳がわからないが、ともかくさっさと路地裏に入ってしまおう。そう考えながら少女を抱え直し、歩き始める。
しかし、立ち止まったのが既に失敗だった。
「……アー、ちょぉっと待ってよね、そこのキミ」
歩き始めた俺の背後、コンビニのドアの向こうから、声が飛んできた。
顔だけで振り向くと、ドアに挟まれている男をまたいで踏み出してくる女が一人。
脱色したのか地毛なのか、ともかくやけに明るい色のウェーブがかった栗毛を揺らし、アスファルトを踏んで立ったその女は、夜だと言うのにかけていたサングラスを外してにっこりと微笑んで見せた。少しまくれたタイトスカートの裾をくい、とつまんで戻す。
「キミが抱えてるその女のコ……置いてってくれない?」
にっこりと笑って小首を傾げてみせる。
その笑顔は何処かで見覚えがあるような気がした。
「……どうして?」
尋ね返すと女は笑って、
「その子はね、アタシのオトモダチなの。オトモダチ。オーケー?」
やけに芝居がかった口調で繰り返し、わざとらしく同意を求める。笑顔はまったく崩れない。まるで仮面でもつけているような笑顔だ。
「……証拠は?」
聞き返す俺に女は笑う。
「トモダチの証拠なんてものが、この世に存在するの? あったら見てみたいわ」
その笑顔は先ほどまでの仮面のようなものではなく、感情の籠もったものだった。しかし何処か不快なものが含まれている。
「まぁ、ないね。愚問だったよ」
言いながら俺はじり、と一歩下がった。先ほどから女の顔にあるあの仮面のような笑顔は、進藤が仕事の時に浮かべる「営業用」の顔にそっくりだった。
つまり、信用出来ない。
「あら、逃げるの?」
言いながら女は一歩前に出る。ハイヒールの踵がこつりと鳴った。
「……あんた、信用出来ないからな」
俺は答えて、今度は明確に一歩下がる。此処から路地まで十二、三メートル。ハイヒールの足下なら追いつけない。路地に入ってしまえば撒くことも出来るだろう。
「……じゃあな!」
言って、駆け出す。地面を蹴り、路地裏に向かってまっすぐ走り始め、
「あら、待ちなさいよ」
頭上から声が降ってきて、すぐに俺は足を止めた。いや止めざるを得なかった。
俺の前方約三メートル、路地との間にふわりと降り立ったのは、たった今俺が置き去りに駆け出した女の姿だったからだ。
ちらりと背後を見る。コンビニの入り口に女の姿はない。つまり……
「キミの頭の上を飛び越した、ってこと。オーケー?」
俺は唾を飲んで、首を縦に振った。
女はその笑顔をいやらしく歪めて、こつり、こつり、とハイヒールを鳴らす。
「ということは。
キミはアタシから逃げられない、ってことよね? ……オーケー?」
まったくその通り。
……クソ、ふざけんな。
「誰が決めた、そんなこと」
言い返す俺に、女は楽しそうに笑って、
「自明じゃない。女のコ一人抱えて、キミはそのまま逃げられるワケ?」
女の言う通り、確かにこのままではすぐに体力が尽きるだろう。しかし、この女の言いなりにこの少女を受け渡すのは、嫌だ。
「……それじゃ、あんたをどかせばいいよな」
言いながら、少女を足下に横たえる。女がにやにやと笑いながら、一歩近づいた。
「やめときなさい、ケガするわよ」
そんな言葉を聞き入れるつもりはなく。俺は拳を握って、少女をまたいで一歩前に出る。
女は懐に手を突っ込んだまま、それ以上動くことなく俺を見据えている。その顔にはいやらしい笑顔が張り付いたままだ。
「レディを殴ろうなんて、酷いオトコね、キミ」
そんな女の言葉は無視して、腰を落とし、拳を引いて身構える。
数瞬の静寂が二人の間に流れた。
たん、とアスファルトを踏んで、前進する。女が懐から手を引き抜く間に、俺の身体は女の眼前まで移動している。
ひたり、冷たい感触が額に押しつけられた。女の手に握られているのは、
「ブチ撒けるわよ」
進藤の処で見慣れたものより幾らか細身の黒いオートマチック。二十二口径だ。
女は、しかし少し残念そうな笑顔で、俺に言う。
対する俺はまだ上半身を振り抜いていない。
その、この程度か、とでも言うような、失望の顔を俺は上目使いに睨み付けた。
「……冗談じゃないぜ」
額に押し当てられた拳銃の銃身、その冷たさに意識を集中する。同時に拳をさらに引き、身体を捻って、
「……死になさい!」
その動きに反応して女は引き金を引いた。
「……ァぁッッ!?」
しかし銃弾は俺の額を砕かず。銃身の内部に現れた“壁”に堰き止められて暴発し、小さな爆発と共に血と女の何本かの指が弾けた。咄嗟に女は悲鳴を喉で押さえ込み、血の吹き出す右手の手首を強く握りしめる。
声にならない悲鳴が上がると同時、俺は上半身を捻り戻し、意識を拳に移しながら目の前の女の腹に叩き付けた。
どんっ、という単純な暴力の音と共に、女はバランスを崩し数歩蹈鞴を踏んで倒れ込む。
「……ブチ撒けたのはあんたの方だぜ」
急激に襲いかかってくる集中の揺り返し。忘れかけていた頭痛がじくじくと滲み出して、俺は頭を押さえながら倒れた女に声を投げる。
「……とお……」
しかし、女は上半身をむくりと立ち上げて、あのいやらしい笑いを浮かべたままで、
「……なかなか……やるじゃないの」
とのたまった。散切れた指からの出血は、この短時間で早くも止まっている。
「おいおい……」
俺は苦笑いしながら、内心酷く焦っていた。今の手段はもう通じない。一度手負いにした相手は、二度目にはもっと恐ろしい相手になる。しかし、この距離であれだけの運動能力を持つ敵から逃げることは至難の業だ。少なくとも少女を拾い直している間に捕まるだろう。俺は再び拳を握り、身構えた。
しかし、女は立ち上がって飛び散った自分の指を拾い上げると、
「キミみたいな“能力者(カテゴリA)”、私の力じゃ押さえきれないわ」
そう言ってくるりと背を向ける。
「“カテゴリA”? なんだよ、それ……」
思わず漏らした言葉に、あら、と気の抜けたような声を出して女が振り返る。
「知らないの? キミや、そしてアタシみたいな特別な力を持つ人間のコトよ。
……まいったな、イグノランスでこんな
さっぱり意味が分からない。と、女は急に笑って、
「目に疑問視が浮かんでるわ。まぁわかりはしないでしょう。
でも、きっと近いうちにキミは知ることになるわ、その子と一緒にいるならば。
……『現実』をね」
その笑顔は、先ほどまでのいやらしいそれとは違い、純粋に楽しそうな顔だった。
「ま、待てよ! どういう意味だ!」
と、声を荒げる俺に答えることもなく、女はぐっと膝を曲げると、
どんッ!
先ほどの殴打の音に劣らない爆発的な音を立てて地面を蹴った。飛び立つロケットのように女の身体は空中に飛び出し、ぐるりと空中で伸身のまま一回転して民家の屋根を越えていく。
「…………」
取り残された俺は、一人立ち尽くすしかない。
全く、訳がわからない。
腹立ち紛れに地面を蹴る。唐突に少し強い風がびょう、と吹き付けた。裸の上半身に鳥肌が立つ。
「……考えててもしょうがない、か」
記憶も、状況も、そして自分自体も、すべてが暗中にあるかのようにわけがわからない。
一人呟きながら少女を抱え上げる。
その体温こそが、今の俺にとってただ一つの確かなものだった。
2014,08/12 22:34
ざざざざざざざざざざざざ……草むらを風が通り過ぎていく。木々も草も、変わることなく其処にあり、そして二人の位置すらも動いていなかった。
ただ違うのはそして月が時とともにさらに明るくなっていること、そして二人の周囲にだけ激しい戦いの傷痕が刻まれていることだ。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ、はぁっ……」
私は身を折り曲げて荒く息を吐く。肌が薄紅色に染まり、全身の傷がうっすらと浮かび上がっていた。
「…………」
対して男──タカヤスは、息こそ荒げてはいないものの、身体の各所に創傷し、今は膝を突いている。かけていた黒眼鏡は戦いの中で割れ、今はその鋭い眼光が露出していた。
二人の間は、十六フィート程度。そこにはさらさらと鳴る草むらと、戦いの間に砕けた岩が横たわっている。
術者としてほぼ互角。故に、決着は着かず、状況は膠着していた。
互いに体力を回復させながら、しかし視線は相手から逸らしていない。お互いの手には紫と黄色の外世光がまとわりついているのがはっきりと知覚出来はずだ。その光は互いに揺らめき、戦いの始めから比べれば衰えている。
私は膝を突いたまま上半身を持ち上げ両腕を広げる。その腕の間に外世光が走り、それは大弓を形作った。光の弦を引く弓手の指先に、三本の光の矢が浮き上がる。
タカヤスは右手の人差し指と中指を立て、目の前の空間に五芒の星を描き、その中心に指を突き立てた。星を引き裂き、紫の力の流れが迸る。それはまっすぐに私に向かって突き刺さろうとしていた。
私は慌てることなく、まず第一の矢を射た。それは力の流れに真っ向からぶち当たり、突き刺さる。続けて第二矢。風という障害を貫いて、第一の矢に続けて紫の力に突き刺さり、そしてそれを打ち砕いた。そして第三の矢が続く。紫の力がなくなった空間をまっすぐに駆け抜け、矢はタカヤスの肩口に突き刺さった。
その瞬間、咄嗟に揚げた左手、その手のひらを貫通し、もう一条の紫の力が私の身体に突き刺さる。ずぶり、と腹に突き立つ。が、手に阻まれた事で力が削げたのか、紫の光が貫いたのは私の薄っぺらな脂肪までだった。だらりと血が流れ出す……しかしその程度。死ぬほどのものじゃない。
ぐ、と一声小さく呻いて、タカヤスの身体が揺れた。そのまま後ろ向きに倒れ込む。そこはこの小さな野原の中心だった。
私はとても良い気分で、腹の傷はそのままに彼に歩み寄る。
戦うということは、相手に対して生の感情をぶつけることだ。想いの衝突が身体に傷を付ける。
この男の想いは、とても良く私に響いた。背後に何を背負っているにせよ、この男は戦う間、私のことしか考えていなかったから。
そして私の想いもまた、タカヤスに良く響いただろう。私は戦う間この男のことしか考えていなかったから。
「……止めましょう」
そう言って私は構えを解く。男は、その砕けた黒眼鏡の向こうから覗く鋭い視線で見下ろす私を見返した。私はただ言葉を紡ぐ。
「あなたと殺し合うのはとても楽しい。響き合うみたいに命が軋る。
だから、今は殺さない。次に出会った時に、また殺し合う為に」
男は無表情に私を見る。この男が顔に感情を浮かべるのを私はまだ一度も見ていない。
けれど、瞳にあるのはとても良く知った感情だった。
「……次は、殺す」
いっそ優しげな声音で言った男の頬に浮かんだのは、喜悦。私は微笑む。二人の間に同じ感情がある。
私が拳を開くとタカヤスの肩に刺さった光の矢がふと消え去る。彼は傷に白い紙を押し当て、指先で表面にさらりと何かを描いた。すると、紙が強く傷痕に食い込み、同化して出血を押さえ込む。喉がぐびりと鳴った。
私は三歩下がって、タカヤスを見る。立ち上がった彼もまた三歩下がって、私を見た。まっすぐに通じ合った視線は、殺意、そしてそれよりも甘美な何かを伝え合う。
私はもう一度微笑んだ。貴康は無表情のまま、黒眼鏡を投げ捨てる。
「楽しみにしてるわ」
そう言って私は、明るい広場から闇の中へ、バックステップで飛び込んだ。タカヤスの黒い姿をを樹の葉が遮り、月の光が視界から失せて、見えるのは闇に浮かぶ私の白い肌だけ。
私はとても気分良く、小さな声で歌を謡いながら爪先で跳ねるように歩く。ふと、子供の頃に読んだ夜の森に遊ぶニンフの話を思い出した。
腹の傷を撫で、指先に着いた血をぺろりと舐める。それはとても甘やかで……、愛おしい味がした。
2nd track "It's beautiful contract" out...