魔女を生かしておいてはならない。
すべての獣と寝るものは必ず死刑に処せられる。
主ひとりのほか、神々に犠牲を捧げる者は断ち滅ぼされる。
──出エジプト記 二十二章十七節より十九節
西暦一四八七年、ドイツのドミニコ会修道士であり、異端審問官である二人の男、ハインリッヒ・インスティリトスとヤコプ・シュプレンガーが著した本は、その後二百三十年にも及ぶ暗い歴史の始まりであった。
その本の名は「Malleus maleficarum」。ラテン語で“魔女に対する鉄槌”という意味の名を持つこの書物は、一四四〇年代に開発された印刷技術によって見る間に欧州に広がり、一七一四年、プロイセンのフリードリッヒ・ヴィルヘルム一世が魔女裁判を禁ずるまで、魔女狩りの教典として数多の無実の罪に正当性を与え続けた。
この書物において魔女は、妖術を身につける為洗礼を受けていない幼児を煮て喰らい、人間の生殖能力を失わせ、子供を流産させるものとして描かれた。それらは魔女に対する激しい拷問の末得られた証言を証拠として、紛れもない事実として記されている。そして魔女を告発することは義務のみならず、聖なる使命であるとされた。その為裁判に公平は無かった。初期の魔女裁判は異端審問官の手に委ねられたものであり、ある程度理性的で犠牲者も少なかったが、一五八〇年頃からは一般の官吏や領主が槌を執るようになってからは魔女には弁護士すら付かなかった。魔女を弁護すればその弁護士もまた魔女と疑われることになるからである。
一六〇〇年代初頭に起こった基督教の改革はその状況を更に悪化させた。新派の立て役者たるマルティン・ルターは著書にて魔女をこう言い表している。即ち、
「魔女というのは、悪魔と寝るような悪い女で、人の牛乳を盗み、雷雨を起こし、山羊と箒にまたがり、マントを着て空を飛ぶ。大人が相手なら弓矢で射たり、体を麻痺させたり、老衰させて殺したりする。乳飲み子をも激しくいたぶり、夫婦には淫乱を勧め、その他にも何でもやるのである」
と。新旧分かたれた基督教の対立は、魔女という共通の信教社会の敵への暴虐をさらに加速させ、その流れが後の宗教戦争に繋がっていく。その後、魔女狩りの嵐は海を越え、新大陸へも伝播していくこととなる。
魔女裁判は告発から始まり死で終わる。発端は家畜の病気であったり、子供の戯れ言であったり、天災であり、身内の不幸であったり、単なる噂であったり、そして身体や精神の障害があるという事であった。その罪状は魔女であるというその一点に集約される。認めれば即座に火刑となり、否認すれば即座に拷問が始まる。拷問は五段階、地域格差も含めれば二〇種類に分かれ、まず前段階として全身の毛をそり落とされる。魔女は悪魔との結託示す証拠を身体の何処かに隠し持っているとされたからである。そして黒子や痣などがその証として探し出されるのだ。その後の五段階は此処では詳細を述べないが、須く凄惨であり、耐え難き苦役であることは言うまでもない。故に魔女とされた者は、拷問に屈して己を魔女と認め粛々と火刑を受け入れるか、拷問の絶え間ない苦痛の中でその命を落とすかのいずれかであった。
そんな地獄の中で、「魔女」たちは易々と死に絶えていったのだろうか。歴史の闇に消え、滅び去っていったのだろうか。その真実は、誰も知ることが無く、現代に魔女の姿はない。
魔女狩りの犠牲者は恐らく数十万人から数百万人、そのうち男性が四分の一程度はいたと言われる。当時の欧州の人口が五千万から一億人程度であったことを鑑みれば、二百万の死者を出したポル=ポトの大粛正に勝るとも劣らない地獄であったと言えるだろう。そして魔女と同様、魔女狩りの動乱の中で錬金術師や魔術師と言った科学の先駆たる神秘の学者たちもその姿を消した。彼らが歴史上に再び現れるのは魔女狩りの後、十七世紀に入ってからのことである。
魔女狩りの時代、魔女という言葉は「悪魔と契約した女」ではなく、「信教を失い邪悪に堕した人間」の呼び名となっていた。しかし、魔女とは本来如何なるものであったのだろうか。
髪を振り乱した鷲鼻の老婆で、マントを羽織り尖った帽子を被って森の中に住まい、巨大な鍋の得体の知れない不可思議な液体を掻き回し、箒に乗って空を飛ぶ。若い姿を持つものはサバトと呼ばれる宴で悪魔と交合し、キリストを侮辱する黒ミサを行う……。現代に伝わる魔女のイメージは概ねこのようなものであろう。だが、この特徴のほとんどが民間人の噂から作り上げられた虚構の姿に過ぎない。上記したルソーの語る魔女も同様である。黒ミサに至っては、「魔女とはキリストに相反するものである」というイメージから作られたまったく架空の儀式なのである。
基督教徒によって「魔女」と呼ばれた存在の大半は、本来基督教以前の原始宗教、地母信仰の末裔であった。彼女らは森に住まい、動物と共に大地の恵みを受けて生きていた。しかし彼女らの信仰は、ローマ帝国の拡大に乗じて欧州全土に広がった基督教から見ればまさしく「異教」であり、「邪教」であったのだ……。
第一幕「流星」
歴史はただ移ろい流れ行き、人は生きそして死に、国は盛衰を繰り返し、大地と空は変わることなくそれを見つめ続け、技術と知識は変容し、世界は小さくなり、しかし争乱は納まることもなく、貧富は広がり、世界を巻き込む戦争が起こり、それも過ぎた過去となり、過ちは過去のものとなり、再び繰り返される。
人の世の闇は暗く、深く。それを陽の元に明かすものとて今はなく。
やがて魔女狩りの終焉から三百年の時が流れ、時は二〇一四年、夏。
2014,08/12
──私は石造りの部屋にいる。
古く、広く、装飾も調度もない。
照明はないが、隙間も見えない程つるつるに磨き込まれた床石がぼんやりとした光を放っているので、足元に不安はない。
部屋の四隅には石の台座に据え付けられた黒い鉄の大皿があり、中には油がなみなみと満たされている。
私はそのうちの一つに近づいて、手に持っていた短い棒を油に向けて少し強く握り締めた。すると棒の先端に小さな火が浮かび上がる。私は棒を大皿の油に投げ込んだ。ごうっ、と音を立てて燃え上がる炎。
とっさに顔を覆う私の背後で、くすくす、と笑い声が聞こえた。
憮然とした顔で振り向いた私を見ているのは二人の少女。足下からの光に照らされて白く浮かび上がっている。
私たち三人は真っ白いローブを着て、フードを被っている。目元までは光が届かず、ただ面白そうに歪んだ口元だけが見えた。
私が何かを言う前に、くすくす笑いを漏らした少女はすぐに真面目ぶった顔をして別の大皿に近づいていった。もう一人もまた別の大皿に。
私はもう一本の棒を取り出し、最後の一つの大皿に火を着けた。
ご・ごぉぅッ。
三度音があがり、ばちばちと油を焼きながら炎が上がり、部屋の全容が闇から浮かび上がってくる。
私たちの他に部屋にあるのは、扉が一つ、壁に走る三本のぎざぎざの割れ目、そして床石に真っ白い線で刻まれた大きな円。それだけだ。
私たちは部屋の中央の円の中に集い、それぞれのローブを脱ぎ捨てる。
ぱさり、ぱさりと床に落ちたそれは脱ぎ捨てられた蛹。
体格に差はあれど同じように生白い裸身が、燃え盛る炎に照らされて黒い闇の中薄紅色に浮かび上がった。
厳粛な儀式者の表情で、私たちは手を繋いで円陣を組み、互いに頷き合って、瞼を閉じて口を開く。
『mundus...』
朗々と唱える声は、始めは一人の声のように溶け合い、時に合唱のように分かたれ、時にただ一つが大きく、時にただ一つが小さく、長く永く謡うように続いていく。
あっと言う間に油の燃え盛る音をかき消し、私たちの声しか聞こえなくなった。
石造りの部屋を私たちの声が支配してからどのぐらいの時が経ったのか。感覚が薄れ、私たちにわかるのは互いの手の感触と身体の熱さ、そして詠う声の反響と、混濁した意識だけ。
そして不意に声が聞こえなくなり、開けていないはずの瞼が勝手に上がったみたいに視界が広がった。
私たちは中空に浮かび上がり、円陣を作ったまま緩やかに回転していた。それぞれの身体は半透明で、向こう側の闇が見える。
足下にはもう一つ、詠い続ける私たちの身体がある。それは身体の末端からきらきらと輝きながら粉のように溶け崩れて、中空に浮かぶ私たちの周囲を真球状に取り巻いた。
一つの球体になった私たちはゆっくりと壁面に向かって進む。と、音も無く、しかし大きく揺れ動きながら、まるで横向きに口を開いたみたいに壁がばくりと左右に割れ開いた。
その瞬間、物凄い勢いで回転しながら私たちはその口に突き進み、壁の向こうの闇に飛び出した。背後で四つの炎がまったく同時に掻き消えたが炎が消える音は聞こえなかった。
時間感覚がないまま、私たちは闇を行く。
聞こえない声で高らかに謡いながら、物凄い勢いで回転し、解き放たれた矢のような勢いで前進する。
視界の中を物凄い勢いで星の光が通り過ぎ、また巡る。ぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐる回りながら、しかし確かにまっすぐに進んでいることはわかっていた。
私たちは何も支えのない闇の中を転がるように進んでいたのだ。
やがて視界の中に大きな青い光が見えた時、私たちは回転を止めた。移動自体はすぐに止まることはなく、巨大な青い球体は視界の中で徐々に大きくなってきている。
私たちはしばしそれを見据え、闇の中を漂う。
それほど長くない時間が過ぎた。すくなくとも、私たちが此処に来るまでにかかったよりは短い時間。青い光は「此処」に向かってゆっくりと動いていた。私たちは青い光がやってくるのを待っていたのだ。
やがて、私たちの周囲の闇に漂う塵が青い光に引き寄せられ始めた。既に青い光は私たちの視界には納まりきらないほど大きくなっている。引き寄せられた塵は燃焼し、光を放ってやがて消える。青い光の表面にある厚い大気の幕が、彼らを包み焼き尽くす。
此処まで近づいてしまえば、十分だった。そして踏み止まるには此処が限界だった。
次の瞬間、私たちは強い力に引かれて眼下に広がる青い光、その中に浮かぶ小さな緑に向かって再び転がり落ち始める。
塵のように燃え上がることもなく、ただ、くるくると回りながら。
青い光の名前は、地球。
私たちはそう教えられて育った。
2014,08/12 14:42
二つの打音が続けざまに響く。一つは踏み込み、一つは拳撃の音。太い木の枝から吊り下げられたサンドバックが揺れ、鎖がぎしぎしと音を立てた。
一歩下がって、もう一度。踏み込み、拳撃が滑らかになればなるほど、打音も連なって滑らかに一つになる。バンデージを巻いた拳が痛みを訴えるまで数十回を繰り返した。
足下は土。四年間掛けて何千……いや、何万回も踏み込んだ結果、型が着くまで堅くなり、また抉れて踏み固められ、それを幾度も繰り返した平面。何度踏み込んでも違う音がする。
周囲を木々に囲まれた狭い空間──幾つも建ち並ぶ貸し倉庫の一つの裏に勝手に切り開かれたそこは、元々はその周囲を囲む私有林の一部で、倉庫の借り主が勝手に切り開いたようだが土地の持ち主からは黙認されている──とは言ってもその所有者はその土地を公園として開放しており、ほとんど管理する気もない、というのが実状のようなのだが。
構えを解く。今年の夏も暑さは強く、狭い空間にも陽光は容赦なく滑り込んでくる。じりじりと焼き付くような温度に汗がだらだらと流れた。
「ふぅ……っ」
息を吐きながら汗でびしゃびしゃに濡れたTシャツを脱ぎ、草むらを選んで投げる。天を指して立つ木々の隙間からやけに澄んだ青空が見えた。白い雲が流れていく。
「岩魚君」
背後から声が掛かった。向き直ると木の影から一人の男が現れる。この暑い最中にもきっちりとスーツを着込んでいる男は腕時計を指先でこつこつと叩いて見せた。
「──あれ、もう時間?」
訪ねた俺に男は肯き、
「今日のお客さんは物騒なタチだからさ。宜しく頼むよ」
俺はその言葉に肯き返し、Tシャツを拾って軽く身体を拭う。
「……シャワーぐらい浴びられる時間に戻って来られないかい?」
男は少し眉をひそめたが、元来の笑ったような造作のせいで少しも困ったように見えない。
「いいだろ、どうせ相手だって似たようなもんじゃないか。……それより今日は給料日だったよな?」
俺の言葉に男は肯き、けれどやっぱり眉を顰めていた。
「勿論しっかり払うよ。金払いはどんな時でも良く流せ、がぼくのモットーだからね。
……でも、もう少し口の利き方はなんとかならないかな、鳥海岩魚君」
俺は肩を竦める。
「そいつは無理だよ、進藤……何せ躾なんかまともに受けてないだろ」
そりゃあそうだな、と男は真顔で言った。
俺が進藤と呼んだ男が、つまり倉庫の借り主で、あの狭い空間を勝手に切り開いた男で、俺の雇い主だった。
ドアの脇に倉庫の中に入ると進藤はただ一台だけある黒革張りの椅子に腰掛けてパソコンの画面を見る。俺はドアの脇に置いておいたバッグに汗に濡れたTシャツを放り込み、替えのシャツを出して着た。
倉庫は奥行きが約十メートル、幅が約八メートル程度の長方形で、高さは五メートル程度。三メートルほどの処に張り出しがついていて中二階のようになっている。
広い倉庫だが、荷物は少なく大体が張り出しの上に積んであって、下はただっ広い空間になっていた。進藤はそこに事務机と書類棚、安っぽい応接セットを置いて事務所として使っている。
「二十八番の箱」
シャツを着終わるのを待っていたのか、腕をボタンを留め終わるのと同時に進藤が言う。俺は掛けられている梯子を昇り、マジックで「28」と雑に書かれている箱を開けた。中にはビニール袋が二つ入っていた。
「二つとも?」
進藤がああ、と答え、俺は袋を両方持って梯子を降りた。袋の中身は数グラム単位でパッケージングされた白い粉と、黒い鉄──拳銃が一丁。
「えーと、五百グラムあるか確認して」
言われた通り粉の袋を秤に載せると、ぴったり五百グラムある。
「うん、じゃあいいだろ」
進藤が椅子から立ち上がり袋を受け取った。無造作に袋の中のパッケージを開け、蓋を閉める。
詰まる処、
そして俺──鳥海岩魚はその雑用係というわけだ。
予定の時刻ぴったりに現れたその男は、有り体に言えばチンピラだった。半端に延びた無精髭と藪睨みの目つき、ハーフパンツにTシャツのいかにもな風体はある意味では親しみ易いと言ってもいい。
「えーと、タナカさん、か?」
進藤が声を掛けると男は、一つ肯いた。
「──此処の取引は初見だったかな。ま、とりあえずかけてください」
進藤の言葉にタナカはソファに向かって歩き、しかし腰掛けない。
「どうしました?」
進藤の顔はあくまでにこやかだ──地顔が笑ったような顔なので、そう見えるだけだが。
「いや……あんたが
男は言って、俺の方を見る。
「こんなガキを使ってるようじゃ、程度も知れるってもんだろ」
男は肩を竦める。俺は特に気にもしない。
「──こんなチビじゃあ、踏み潰されちまうぜ」
その言葉に俺の脳の芯がかっと熱くなった。
二連続の打音が倉庫に響き、一瞬の間を空けて落下音が鳴った。
「……俺は、チビって言われんのが大嫌いなんだよ」
突き出した拳を引きながら呻くように呟く。男は何が起きたのか判らないような顔で俺を見上げ、直後に痛みに気付いたように胸元を押さえて
「覚えとけよ……次言ったら叩き潰して」
「──はいストップ」
背後から掛かった進藤の声で頭に昇った血がすっと引く。
「岩魚君、お客さんに手荒な真似はいけない。起こして差し上げなさい」
「……へえい」
やる気なく応えて俺は男に歩み寄る。その動きに気付いた男は、まだせき込みながらも自分で立ち上がり、俺から一歩離れた。
「……嫌われた」
肩を竦めて俺は男から離れ、壁に立てかけてあったパイプ椅子を取って進藤の側に座った。
「当たり前だよ」
と進藤は苦笑いして応え、
「……さて、タナカさん。不用意な発言はあまりしないでくれると助かるな。この少年、扱いづらくてね。血気にはやるお年頃って奴だ」
軽口を叩く進藤に、男は慌てて頷きを返す。その様を見ながら俺は目を逸らし、背もたれに体重を掛けた。
──またやっちまった……。
内心頭を抱える。どうにも「背が低い」類の言葉で挑発されるとすぐに頭に血が上る。仕事柄不用意な荒事は危険を招くってことは判っているが、どうにもカッと来てしまう。
まぁそれが事実だと言うことは良く判っている。同い年の中学生でも、大体が百六十センチ台後半ぐらいはあるのだ。百五十九センチでは少し足りない。
確か四年前──進藤に拾われた頃には、もう百五十センチあったはずだ。ということはそれから一年に二センチ程度しか伸びていない事になる。
考えてみても判るわけではないが、それでもいつも考えてしまう。……他に考えることがない、というのが正しいか。
進藤に拾われてから四年間をこの街で過ごして来た。義務教育は終わっていないが、身元が判らないからには受けようがないし、家には戻りたいと思わない。
──そもそも、俺は自分の身元が判らない。それ以前に自分が何処にいたのか、どういう生活をしていたのか……ほとんど覚えていない。ただなんとなくあるのは、家族に対する嫌悪感と罪悪感。この話をすると進藤はいつも、
「きっと何かつらいことがあったんだろうね」
と言って真顔で肯く。笑ったような顔で言われると悩んでいる意味が分からなくなって、結局いつも俺は考えるのを辞めてしまうのだ。
ぼんやりと倉庫の壁を眺めていた視線を進藤の方に向ける。進藤とタナカは何やら世間話をしているようだった。時たまタナカの視線が俺の方を向いて鋭くなる。
……まぁ、憎まれもするよな。いつもの事だ。俺は再び目を逸らす。
家族のことを思い出して見る。父親の顔、母親の顔……思い出せないことはない。ただ、その時に喚起される感情は、恐怖と罪悪感。家族だという確信が持てない。
家族というものは……確か、もっと近しいものだった。そういう感覚が頭に少しだけ残っている。
そうしてもう一つ、記憶の中から何かが浮かび上がってくる。それは誰かの顔のはずで、けれど顔の体を為していない。それはまるで塗り潰されたように黒く──、まるで重く暗い壁の向こうにあるような……。
瞬間突き抜けるような頭痛がして、
「……君、岩魚君」
その声にはっとして視線を進藤に向ける。浮き上がってきた顔は壁の向こうに消えて思い出せず、それと一緒に頭痛は掻き消えていた。
「岩魚君、タナカさんがお帰りだから、表まで送って差し上げて」
肯いて立ち上がると、冷たい汗で濡れたシャツが背中にひたりと張り付いた。
2014,08/12 15:30
『事務所』を出ると傾斜し始めた太陽が背中の汗を乾かし始めた。俺はボストンバッグを抱えたタナカの先に立ち先導する。進藤のいる倉庫から表に出るには他の倉庫を幾つか通らねばならず、その中は結構複雑な構造をしている。行きは誰か別の、俺の知らない奴が案内してくるらしいが、帰りに送るのは俺の仕事の一つだ。
積み重ねられ、入り組んだコンテナの間をぐるぐると歩く。わざと同じ処を何度も通ったり、狭い隙間を通ったり……、一人であそこに来られないようにする為の手段だ。
十五分ほどかけて感覚を乱した末、倉庫を出る。出た先は公園の外れ、小さな林の中。
「送迎は此処までだ。後は好きに帰りなよ」
俺はそういって倉庫に戻ろうと背中を向けた。……と、その瞬間、背後でかちゃ、と鉄の擦れ合う音がする。
「……おいおい、ガキに殴られてチャカ使うなよ、そんなにシャクか?」
振り向かないまま声を出す。背後の殺気は変わらず俺に向けられている。
まいったな……。感覚で大体の距離を測る。三メートル……ってとこか。小刻みに銃口が揺れているのは緊張か、それとも興奮か。何にせよ引き金は重くなさそうだ。
両手を上げて向き直りながら、
「やめろよ……」
言いながら俺は銃口に意識を集中する……勿論やられてやるつもりはない。集中した意識の先端に
「な?」
意識を集中したまま一歩後ろに下がった。逃げようとしているみたいに薄ら笑いを浮かべてみせる。集中の結果流れ出る冷や汗が好都合だ。
もう一歩、下がる。
「……うっせえ!」
タナカは吠えて拳銃を握りしめ、
その瞬間、ぱぁん、と驚くほど軽い、花火のような銃声が鳴り、火薬の炸裂が弾丸を押して
しかし実際に起こったのは、くぐもった衝撃音。同時に赤い光が炸裂して、タナカの指が
「……っぎゃあッ」
短く悲鳴を上げてタナカは腕を振り上げ、暴発して炸裂した拳銃を放り上げた。その動作が始まった瞬間、俺は軽く跳ぶように間合いを詰めて、踏み込むと同時に拳を放つ。
銃声よりも重い打音の数瞬後、タナカは前のめりに倒れ込んだ。
「……はーっ」
詰めていた息を吐く。自由に使える「力」とは言え、かなり緊張はする。深呼吸をして動悸を整え、殴った右拳を握ったり開いたりする。特に傷にはなっていないようだ。
とりあえず周囲を確認する。気配はないが、銃声と悲鳴がした以上しばらくすれば人が来るだろう。タナカは茂みに押し込んで、破裂した拳銃とボストンバッグは持ち帰る。警察が来た処でタナカがモノを持っていなければどうしようもないだろう。後は自力でどうにかして貰おう。運が良ければ早いうちに気が付くだろう。
運が悪ければ…… まぁ、そんなこと知った事じゃない。
2014,08/12 15:53
倉庫を抜けて真っ直ぐ『事務所』に戻ると、進藤はソファに掛けて天文雑誌を読んでいた。仕事柄に似合わずロマンチストだ。ドアの音に顔を上げ、俺の手にあるバッグを見て、
「……早かったね」
いつも通りの顔で言う。
「怪我はないね?」
当然のことを確認する、という口調だ。俺もいつも通りにああ、とだけ言う。
俺のような子供が──そう、本当ならまだ中学に通っているようなガキだ──進藤という「ヤバイ奴」の雑用をやっていられるのも「力」があるからだ。
俺は意識を集中することで『壁』を呼び出すことが出来る。呼び出す壁は無色透明、俺にしか見ることは出来ない──俺にしても見るというよりは
壁の重量は大きさに比例し、小さければ空中に浮かばせることも出来る。そして堅さは大きさに反比例する──つまり大きくしすぎれば脆くなるし、地面に立てるようにしなければ使えなくなる。さっきは銃口を塞ぐように極端に小さな壁を浮遊させたというわけだ。
俺が何故こんな力を使えるのかは、判らない。ただ進藤に拾われた時には既に
「……まあ、使いすぎないようにね。秘密兵器は秘密にしてこそ兵器だからね」
進藤は言いながらさらさらと領収書を書き付け俺にサインをさせる。そして金庫から封筒を出し、俺に手渡した。
確かに、知られてしまえば集中する前に殺されるのがオチだ。控えるようにしないとな……と思いながら、俺は肯いて封筒を受け取った。これで一ヶ月暮らしていける。
その後小一時間ほど、進藤は書類を書き、俺は指示に従って荷物を移動させたり数字を書き換えたりする作業に従事した後、
「んじゃ、これで今日の業務終わり。夜番の人は後で来るから戸締まり御願いね」
進藤は立ち上がった大きく伸びをし、書類をしまい始めた。俺は言われた通りに戸締まりをして回る。裏口に置いてあったバッグを取って鍵を掛け、正面口に戻るとトレンチコートを着込んだ進藤が待っていた……この男は夏でも冬でも同じ服装で毎日生活している。
「じゃ、行こうか」
駅に向かって歩き始める。倉庫を抜け、公園を通り抜けた向こうの商店街に出る頃には日はすっかり落ちていた。
商店街を歩いて行く最中、唐突に進藤が立ち止まった。
「そうそう」
と言って手帳を開き、ぱらぱらと捲って、
「……ああ、やっぱり今日だった」
改めて鞄から引っ張り出して来たのは先ほど事務所で読んでいた天文雑誌だった。
「ほら、」
と言ってページを開いて見せてくる。そこには「ペルセウス座流星群」の文字と共に見開きで特集が組まれていた。
「……そうだな、八時過ぎぐらいかな。北の空を見て御覧。
きっと綺麗だから」
そう言って、進藤は雑誌を押しつけて来た。受け取らないと後でなんだかんだ言われるので素直に受け取っておく。
その後は特に会話もなく、駅前まで出る。五時頃なのに人気の少ない駅の前、階段の下で俺達は別れた。
2014,08/12 18:15
ターミナルからバスに乗る。駅から十五分ほど離れたバス停で降り、さらに十分ほど歩いた処にあるアパートが俺の住まいだ。古いアパートなのに1LDKという豪勢な間取りで、進藤のコネを使ったおかげで家賃は安くして貰っている。
インスタントラーメンで食事を済ませた後、シャワーを浴びて着替え、粗大ゴミの日に拾ってきたスプリングの壊れたソファに横になってテレビを眺める。特にすることもなく一日が終わっていこうとしていた。
「……何事もない」
呟いて見る。まったく何事もない。昼間に起きたようなことぐらいなら、日常……とは言わないまでも今までにも何度か経験がある。けれどそれ以上に、自分が死んだとしても
それは自分が今現在なんでもない存在だという意識だ。死んだ処で誰も嘆かないし、自分も惜しくない。大事なものがないし、やりたいこともない。
何もない。
結局の処、俺は四年前から何も手に入れていなかった……想い出だとか、知識だとか、欲求とか言うものですらも。
「…………」
意味もなくテレビの音量を無くしてみる。
画面の向こうで芸能人が口を大きく動かして何か喚いているが、それはまったく俺には関係がない。チャンネルを変えた。
画面の向こうでドラマが始まるが、感動的なストーリーも俺には関係がない。チャンネルを変えた。
画面の向こうでニュースキャスターが何かを読み上げる。失業率がまた増えた、というテロップが出るが、俺にはやっぱり関係がない──今の処は。この年齢では誰も雇いはしないし、進藤の処から離れれば野垂れ死ぬだけだろう。
そう考えても、あまり暗い気持ちにはならなかった。何にせよ、俺が死んだ処で別に何もないという事だ……。
画面のテロップが流れ、次のテロップが現れる。チャンネルを変えようとリモコンに延ばした指が思わず止まった。
画面に浮かんだテロップは『ペルセウス座流星群』。ニュースキャスターが画面から消え、画面には『昨年の様子』という文字と共に空から幾つもの流星が降り注ぐ様が映し出された。
「……すげえ」
思わず口から漏れた言葉に俺ははっとする。この四年間、覚えている限りでこんな風に思ったことはなかった。ただ漠然と生きてきたように思えたから、
「……見に行ってみるか」
想い出ぐらいは手に入るかもしれない。ちょっとした期待を持って立ち上がった。
狭い平屋からアパート、マンション、前後庭付きの豪邸までが建ち並ぶ一帯と、比較的最近──とはいっても十数年前──に造成された国営団地の一帯。二つの住宅地に挟み込まれた緩衝帯にあたる場所に、この近辺では唯一の綺麗な河原がある。
どちらの区域からも人口密集地からは少し遠く、また緑が多い──視線が通りにくい程度に木々が立ち並んでいる為、昼間はともかく夜は人気がほとんどない。そんな場所に俺はやってきていた。
予想はしていたが誰もいない。ニュースでやっているぐらいだから誰かしら見に来る奴もいるだろうと思ったが取り越し苦労だったようだ。
丸い石を蹴りながら歩くと冷たさがそろそろと身体を昇ってくる。夏といっても夜の水場はさすがに寒く、持ってきたジャケットを羽織った。
立ったまま見上げた空には痩せ細った月がある。その光は控えめで、周囲の星の輝きを邪魔することもない。
「……どっちだったかな」
顔を空に向け方向を探りながら、河原に腰を下ろす。視界の端をちらりと光が駆け、視線はそちらに向いた。
まるで何もない虚空に星はぱらぱらと散らばり、その隙間には光の速さでも何十年、何百年、時には何千、何万年と掛かる隙間がある。
けれど、
「大したことないよな……」
とも思う。それだけ離れているならそもそも出会うことはないし、もし出会ったとしてもその距離を届く手段を星は持っている。光でその存在を主張することが出来る。そしてその光が届くまでの時間を待つだけの長い寿命もある。
でもそれは、
「……人間にはない」
石だらけの河原に横になった。少し寒く、けれどそれが気にならないぐらい視界一杯の夜空が綺麗だ。
やがて輝く軌跡を描いて幾筋もの墜落が始まった。きらり、きらりと輝くそれは一瞬見えたかと思うと既に流れ落ちていて、酷く儚い。
今流れ落ちた星は、何処かの星──星未満の岩かもしれないが──にぶつかった別の星によって弾き出された岩塊のなれの果てなのだろう。でも元が何であれもう戻ることは出来ないし、地球の上の方で燃え尽きてしまった
同じように、人間は一度墜ちたら戻れない。
それは物理的な距離だけではなくて……こんな言葉言うのも恥ずかしいが、心が離れたら人間はずっと戻ることが出来ないということだ。その繋がりが強ければ強いほど、離れてしまった時の距離も遠くなる。地球まで弾き飛ばされた流星みたいに。
また一筋星が流れた。見ているうちにもまた一筋、そして一筋……そうやって連続して、何時か見上げている空の一角を埋め尽くしていく。
弾き出された岩の群、戻れない星、何も判らないままで焼け落ちる……けれど誰だって何もかも判ってる訳じゃない。星が一つになろうとぶつかり合って砕けるみたいに、沢山の離別がある。
みんな何も判っていない……きっと。
「……何考えてんだ、俺」
溜息と同時にそんな言葉が口を吐いた。星なんか見たからセンチメンタルにでもなったんだろうか。
「普段しないことをすると、調子狂うな……」
言いながらまだ視線は空を向いている。何か起こるんじゃないか、なんて淡い期待を抱いたまま、ぼんやりと空を見ていた。
やがて降り注ぐ流星雨は数を減じ、空に穏やかさが戻って来た。俺は上半身だけを起こし、河原に腰を下ろしたままそれを見上げている。
何も起きなかった。ただちょっとばかり綺麗なだけの時間。けれどまぁ、それもいいかと思う。
今まで手に入らなかった想い出が、安易に手に入ってしまうものじゃなかったということが確認できた。それはそれで、一つの収穫だ。
ズボンの裾と尻の辺りをはたきながら立ち上がる。堅くでこぼこした石の上に横になっていたからか、身体が少し軋んだ。
「ん……」
息を吐きながら大きく伸びをする。そうして川に背を向ける。
そしてその瞬間、視線の先で起こった光に目を奪われた。
それは異常だった。
大気に擦れて燃え尽きて行くはずの流星……その一つがやけに長く、長く尾を引いている。
まるで墜ちる流星ではないように、一定速度の降下。そしてその動きはゆるやかに速度を落とし、ついにはゆっくりと光度を増しながら静止した。
俺はその星に視線を囚われて動けずにいる。何時か見たことのあるような真っ白い光。そしてその鋭さが網膜に影を焼き付けて──
私たちは青に墜ちていく。
「────!」
言葉にならない疑念、一つになった私たちの間では自由に伝播するはずのそれは、しかし全く伝わらなかった。
──拒絶されている。
私が意識を遮蔽したその直後、ぱりぱりした感覚と共に“私”の上を悪意が滑っていく。……無防備で受け入れていれば意識が飛んでいたかもしれない。
意識を閉じたまま意志を発する。
「何故!?」
私たちは地上に降下する──墜落ではなく、大地に立つ。そのはずだ。
「何故!?」
私は再び意志を放つ。けれどそれは“彼女たち”の遮蔽された意識の上を滑るだけだ。
やがて眼下、重力の方向で青がどんどん拡がっていく。風の元素が私たちに強くぶつかり、存在を主張し始めた。
急激に世界が暗転する。太陽が青の向こうに隠れ、私たちは表面を撫でるように青い球体の上を滑っていく。
私は彼女たちから離れようと意志を変えた……けれど重力は、今までに経験のない強い引力は私の行動を許さず、心が引きずられていく。
そして私の両腕を彼女たちは強く握りしめていた。一つの白い光球は、今や重なりあった三つの光になっている。そしてその核は三人の
風の流れはそのままに、軌道が変わった。眼下の青い表面が少しだけ流れながら物凄い速さで近づいてくる。
私たちの向かう先は暗く、黒い大地。その速度、そして暗さは私に墜落の恐怖を与える──虚空を落下するのではなく、大地に激突する恐怖──!
私の心体が萎縮した瞬間、
「……私は、」
唐突に意志が私を叩いた。私の意志を拒絶した光──私を引きずる“彼女”に。咄嗟に私は意識を開き、
「──!」
炸裂した意志に何もかも
見上げた先で真っ白い流星が唐突に静止する。
呆然と見上げる俺の頭上、大体百メートルぐらいの処で星は急に三つに分かたれた。脈動する黄色の星、無機質に輝く銀色の星、そして強く輝く青白い星。
青白い星を真ん中に置いてその周囲を残る二つがぐるぐると旋回しながら、三つの星はゆっくりと下降し始めた。まるでワルツでも踊っているかのように。
その速度は一定ではなく、それどころかどんどん速くなっていく。銀と黄色は時折ぱっ、ぱっとハルシネーションを散らし脈動する。そして一回転毎に青白い星は光を奪われ、やがてほとんど無くなってしまった。
引き替えに黄色と銀色の光はどんどん強くなり、視界を塗り潰すほどになっていく。俺は目を細めて両腕をかざし、その隙間から状況を仰ぎ見る。
音はまったくない。気味が悪いほどに静かで、聞こえるのは川のせせらぎだけだ。けれど頭上、高さは大体三十メートルぐらいの処まで星は降りてきていた。
「……星じゃ、ないのか?」
俺が今更のように呟いた瞬間、黄色と白の星はぐるぐる回転しながら高く高く跳ね上がり、まるで振り回された円盤のように物凄い勢いで吹っ飛んでいった。方角は多分、北と西。
俺はそれを呆然と見送り……そしてはっと視線を頭上に戻す。残された青い星──それは光を失いながらもゆっくりと墜ちて来ていた。そして俺はその光の中に、
「……人?」
そんな形の影を見て、慌てて走り出す。光は緩やかに、けれどさっきまでよりも早く落ちてくる。俺はその真下、川のほぼ真ん中まで走った。川面を蹴立て、水に脚を取られて転げそうになりながらもどうにか辿りつく。膝下までの深さの水は酷く冷たい。
直後、見上げた頭上にうっすらと残っていた青い光が、死んでいく虫の鳴き声のように二度明滅してふっと消えた。その途端光に包まれていた人影が自由落下の速度で落ち始める。
俺は咄嗟に頭上の空間に意識を集中する。薄っぺらく大きな、幕のような“壁”。強度はいらない、ただ大きく──数人掛かりで広げたシーツのようなイメージを展開する。
そのイメージが完成したかを認識する間もなく、人影は“壁”に激突し、ざりざりと“壁”が引き裂けるような感覚と共に人影の落下速度は落ち……、けれど落下は止まらない。
俺は両腕を突き出し、両足を肩幅程度に開いて待ち受ける。その行動に意識がいった瞬間集中が解け、“壁”が消え去った。
そして俺は再び落下した人影を抱き留める。俺の脚は急激に掛かった重さにも思惑通り耐え切った……が、足の下にあった石がずるりと滑り、体制が崩れる。
視界が後方に傾斜していく。しっかりと腕の中の身体を抱え、後頭部を打たないように受け身を取った。
盛大に水飛沫が上がる。
跳ね上げられた飛沫がぱしゃぱしゃと水面を叩く。白い泡が浮き上がって消えた。
ゆっくりと立ち上がってみる……幸い怪我はないようだ。川底に尻餅をついただけですんだ。
また滑らないようにゆっくりと立ち上がって……そうしてようやく、俺は抱えた真っ白い裸身を見下ろした。
……腕の中に抱えた身体は、少女の形をしている。
水面を叩く飛沫も既になく、再び周囲には夜の闇と川のせせらぎだけがある。空には既に流れる星はなく、ただぽつぽつとまばらに星が見えるだけだ。
俺は目の前の白から目を逸らし──どうしようもなくなって嘆息した。
1st track "Fallen star" out...