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2004年12月22日

毒々しい倦怠。あるいは思考は立つべきだが登山すべきではないということ。

 些細なことで感動してボロボロ涙を零したり出来る情緒不安定な冬の寒い日、皆様はいかがお過ごしでしょうか。僕は素敵に胃痛がします。大丈夫、カフェイン飲み過ぎただけだよ(素敵な笑顔で)。
 完全な鬱に落ち込んでる時は泣いたりしない、というかずっとムカムカしてるだけなのでまだマシなんですが、これ以上落ち込むとちょっとやばいかなー、という感じ。これ以下にはならないように注意しないとなぁ。

 えーと、コミケですが、会場で初見の方(通りすがりに見てくださる人が一人ぐらいはいるかもしれませんし……)を対象に、発行版と同じレイアウトに調整した1~5部のコピー原稿と未出のキャラデザインラフ(カゲローさんに無理を行って出して貰いました……すみません)を持って行きます。コピーしてペーパーにしようかしら。
 「十一月のヴァニシング(仮)」はちょっと滞りつつも進行中。なんとかなります。します。

 えーと、今日はちょっとTRPGの事を書いてみましたよ。
 最近メッセンジャーでも話しかけられることも滅多になく(取り込んでたり修羅場ってたりしたので)蚊帳の外に居たんですけども、時間が出来るとやっぱり気になったんで色々と考えていました。でも考えてないでプレイしたいなぁ。プレイすべきだよなぁ。
 ちと長いので追記の中にいれときますよ。

 ちなみに上の話は僕の批評に対する意見を内包しているのでついでに書いてしまいますが、僕は批評というものが大嫌いです。インプットに感想しかかかないのはその為で(よっぽど書きようのないもの、批評的に見るしかないものは除きますが)、正直に言えば馬鹿馬鹿しいとすら思います。
 自分の作品に対して意見を貰うのは大いに歓迎しますし、否定的だってなんだって感想を貰ったら嬉しいですが、「評価してやるぜ」という態度は正直失礼にしか思えません。書いたものを読んで貰えるならお客さんは選んではいけないんですが、批評はされても「ハー、ソウデスカー」という反応しか出来ないでしょう。
 尊敬できる批評家でも居れば別なんでしょうけど、尊敬できるような態度を見たことがないのも批評に対する僕の思考を悪くしている気がします。
 ……まぁ、これも意見にすぎないんですけども、僕にも偏狭な処はあるのだ、というお話で。まったく説得力をなくしているナァ。

 うおお、一週間やってなかったら東方永夜抄(ノーマル)ノーコンクリア出来なくなっとる……orz そういえば冬は萃夢想出るんだなぁ……って体験版出てるや。やっとこ。

 凄く楽しみにしてたベルヴィルランデブー、まだ見に行けてません。行きたいですがとりあえず原稿終わらせてから。24か25の昼間にでも行こうかしら。一人でな!(ゲラゲラ


リンク関連
 あー、ごめん忘れてた。椎名桜の日々の出来事を叩きつけるブログ(仮にリンクしました。>私信:もうちょい落ち着いたほうがいいと思う。
 蕨海月さん@きゃっとぼっくす。のblogきゃっとぼっくす。にリンクしました。
 あれ? してなかったっけ?(汁 飛鳥彼方さんの推定天使-D.G.S.-にリンクしました。改めて。
 
web拍手レス
>20日
>ハゲタカさん
 いやはや、それでも申し訳ないと言うしか僕にはないのです。
 もっと頑張れたはずだし、もっと前の段階で怠惰に流れてしまったのが今の限界を招いたので。
 まぁ、こうなってしまった以上はここから最良を目指しますです。はい。
>22日
>meyさん
 無理はしてませんですよ、むしろだらけてるぐらいです。申し訳ないことに。
 ゆっくりとしすぎず、ちゃんと作品の寿命の中で書き上げてやろうと思います。頑張ります。

インプット
 夏頃yasuさんに借りたスパロボMXをちょくちょくやっていたり。現在14話。今の処第二次αの方が好みだなぁ、話の中で主人公が薄い感じです、まだ。
 漫画は「覚悟のススメ」を読み直しました。ああ、格好いいわ覚悟。子供の頃あまり触れなかったせいか、今になって逆に覚悟やスパロボキャラのような暑苦しいキャラが大好きです。剣鉄也とかいい。「命を燃やす時が来た、行くぞ!」とか言われると心の乙女のどこかが濡れるような気分(駄目な表現)。

私信>kの人:
 久方にメール送ったです。届いてなかったら狼煙をあげて知らせてください。届いてたら瓶に手紙を入れて返信してください。漂流式通信。

 ※今回の話は特定個人の事を言ってるわけじゃなくて、風潮に対する意見なので、あしからず。

 なんぞ「いいプレイヤー」という言葉を時たま聞くのですが、この言葉に定義ってあるんでしょうか。
 つまりいいプレイヤーとはいかなる実態を持つのか誰か決めたのでしょうか。

 まぁダレが決めても別に良いのですが(投げているわけじゃないですよ)、決めた人(もしくは人たち)は、一つだけ認識しておかねばならないことがあると思います。それは「その『いいプレイヤー』はあなた、もしくは論議に参加した人の間でしか通じない定義である」ということです。

 30人で構成される1つのプレイグループ(民族・母体社会の差がないか非常に少ない同じゲームを遊ぶ全員が等しい発言力を持つ集団であると考えます(*1))の中で、10人を集めて『いいプレイヤー』を定義づけたとしましょう(この『いいプレイヤー』定義を定義A、定義づけに参加した10人をグループAと仮称します)。
 次にAを定義した10人を除く残りの20人から10人を集めて、再び『いいプレイヤー』を定義づけたとします(この『いいプレイヤー』定義を定義B、定義づけに参加した10人をグループBと仮称します)。
 最後に残った10人は定義付けを行わず、各人の中で『いいプレイヤー』について考えていたものとします(この10人を暫定的にグループCと仮称します)。

 まず、定義Aと定義Bは必ずしも同じものにはなりません。そして定義AもBも双方の定義づけに参加していない残りの10人には通用しません。
 なぜなら「いいプレイヤー」像は各人によって違うものだからです。
 もちろん同一のプレイグループで普段からプレイングの上達をはかっていたならば同じ傾向の意見を持つことはあるでしょう(FEARのゲームにおける上質なプレイング技法はこれを明文化したことによってプレイグループ間の差を縮め、またプレイグループ内での方向性の差を修正しました──ゲームの側で)。
 ですが、これは完全に同じにはなり得ません。個人の感覚格差、理想とするプレイングには差があるのです。完全に同じものを目指す為にはまずそこを見据え合う必要があります。
 つまり最初に行われた「定義づけ」によってその見据える行為が為されているわけですが、グループAとグループBは全員が違うメンツになっていますから、そもそも同じ方向を見ては居ないのです(小さな差かもしれませんけど、後になって大きくなってくるでしょう)。
 そして定義づけに参加していないグループCはそもそもどちらをむいているかが定められていません。これではどのようにしてもプレイグループ全体が同じ方向を向く、すなわち定義された『いいプレイヤー』に向かうことにはなり得ません。

 上記の場合ではグループAとBの人員は重複していませんが、これが重複した場合でも結局同じ定義には向かいません。極論すれば「平等で公正で完璧で誰にでも認められる『いいプレイヤー』というものを複雑かつ厳密に定義する」ことは出来ないのです。
 もちろん現実には発言力の大小があって(雄弁さとも言うし周りを見ていないのかもしれませんけど)、発言力の大きい人物が両方の定義づけに関わっているならばその人の方向性に引っ張られることはあるでしょう。ただそれはその発言力のある人に引きずられて為された定義付けであり「総員の同意に基づいた定義」ではなくなってしまいます(発言力に差があれば少数派は口を紡ぐことになるからです)。

 また、定義Aと定義Bが現れることによってこれが「常識」とされてしまう場合があります。つまり「多数者が定めたのであるから少数者の言うことよりも正しい」という思考が発生するということです。
 この時、定義の場で意見を述べていないグループCの意見は「常識じゃない」ものとされてしまう場合が多々あります。少数派の意見は黙殺され、多数決ですべてが決まるというのは実に民主的ですが遺恨を残す形態です。
 また、定義づけを行わなかったとするならば、「良いプレイヤー」という言葉に付随する幻想に引きずられていることになります(細部では異なっているかもしれないのに、大枠のイメージだけで「正当」を決めつけているわけです)。この場合は近しい幻想を持ち合わせた者同士で話が合い、イメージが合わないというだけで排斥される少数者が発生してしまいます。

 さて、ここで重要なのは「良いプレイヤーを定義することは良いプレイングに必要なのか」ということです。
 良いプレイングというものも定義付けはしづらいですが、FEARゲーに関して言えば『トーキョーN◎VA the Detonation』P.77「ニューロキッズ通信:コアシステム」に曰く、「コアシステムは一回のゲームを如何に楽しいものにするかを工夫するためのルールである」、ということはつまりゲームは楽しむものであるということで、「良いプレイング」とは最終的に「全員が楽しいこと」だと思います。
 では「良いプレイヤー」定義がプレイに参加するプレイヤー及びゲームマスター(総称として)全員の同意の下に定義しておらず、その定義に参加者が一人でも不服を持ったならば、その定義からはずれていると主張すること、それに基づいてそのプレイヤーに抗議を申し立てることは正当でしょうか。
 僕はそれは多数者による少数派への攻撃になってしまうと思います。つまり、良いプレイングにとっては害だと思うのです。

 僕は良いプレイヤーを論議する、目指すことには全く問題は感じません。むしろ良いことだと思います。
 ただ、それは「その場におらず論議していない他者には必ずしも当てはまらない」のです。自分の理想は自分のものでしかなく、いくら思考しても他者が同じ処を見ているとは限りません。話し合いの中で生まれた理想もまた然りで、それを押しつけたらただのわがままです。

 また、同じようにプレイ終了後のディスカッションは非常に有益ですが、「批評」はすべきではありません。
 「良いプレイヤー」像は各自の理想にあり、自分が当てはまっているかいないかをさておいて他者が当てはまっていない部分をめざとく見つけることは簡単です。
 批評というのは比べて評すると書くとおり、比較です。そして比較対象はイマジナリー(=理想的)なものですから、対象をけなすことになりかねないということは、わかっての通りと思います。
(25日2:00分訂正) えー、見ればわかりますが批評は比べて評するじゃなくて批判して評するですね。ごめんなさい。まぁどっちにしても批判するときは比較対象を設けることとなるので、その部分に関する意見だということです。
 「ここは良くなかったね」「ここは良かったね」という感想は大いにあるべきです。けれど「ここはこうある『べき』だ」「こうじゃなければ『いけない』」「こうで『あれ』」というあなたの理想を他者に押しつけてしまったら、それは既に「楽しいセッション」の破壊でしかないのです(*2)。

 まぁ纏めれば「小さな範囲で理想を固めず、遊んだ相手に感想を言う方が楽しいし有益じゃないかな」というお話。
 「こうじゃなきゃダメだ!」みたいな物言いは楽しくないと思うんです。

 ご意見ご批判など、ありましたらどうぞお送りください。お待ちしております。


*1:例えば「日本人でN◎VAプレイヤー」のように。
 もちろん日本人の中でも在日の人であるとか帰化した人とかハーフだとかありますし、また地域格差による差もあります。そのことはいったん脇においておきましょう、ということで。
*2:これはプレアクト以前の段階にもいえることで、「こんなキャラの案がある」という言葉に「それは『良くない』」というのと「それは『面白くない』」というのでは全然違います。後者は感想ですが、前者はあなたの判断でしかなく、実際的にプレイングを見ないでそれを判断してしまうのは楽しいゲームの機会をつぶしてしまうことではないかと思います。

投稿者 PsyKa

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コメント

意見と批判は別物ですよ~、と常々思いまする。

投稿者 りゅうと : 2004年12月24日 00:04

 なのですよね。
 そのあたりをまぜこぜにしてしまうというか、意見をいうということを「上から見下ろしていい気になる」ことだと思い違っている人が時たまいらっしゃるのが問題です(まぁそれに自覚がないのが当たり前ながらつらいところで)。
 批判が批判になってなかったりするのも馬鹿馬鹿しいですしね。

投稿者 PsyKa : 2004年12月24日 04:15

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